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廿日市の郷土の歴史・文化などの情報発信


2024/11/23
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2011/05/18
「内侍方居屋敷」

嚴島野坂文書1917号  嚴島社社家内侍祝者屋敷付立(年号不詳)
 
(内侍方居屋敷)   (所在町名)
 
竹林内侍居屋敷     久保
御子内侍居屋敷     久保
徳寿内侍居屋敷     瀧小路
四老内侍居屋敷     柳小路
五老内侍居屋敷     南小路
六老内侍居屋敷     南小路 
七老内侍居屋敷     南小路
八老内侍居屋敷     南小路
わこん内侍居屋敷     南小路
から神内侍居屋敷     中西
せん松内侍         瀧小路
てん内侍居屋敷     南小路二有
みや松内侍居屋敷    大西二有
お宮松内侍居屋敷    瀧小路有
才鶴内侍居屋敷     南
きい内侍居屋敷      大西二有
植木内侍居屋敷     中西有
宮槌内侍居屋敷     南小路有
高井内侍居屋敷     中江有
ねゝい内侍居屋敷    瀧小路有
石田内侍居屋敷     中江
あねい内侍居屋敷
てん内侍居屋敷     南小路有
さい松内侍居屋敷    中西
いゝた内侍居屋敷
かなちよ内侍居屋敷   南小路
河野内侍居屋敷     久保
 
島内の町の区分
文政八年(1825)成立の「藝藩通志 巻十五」―安藝國嚴島三の 
市街公廨(くがい)に島内の町の区分説明あり。
 
東町(本社より東の総称なり、其内左のごとくわかる、
 大町―搭の岡ともいふなり
西町(本社より西の惣稱、且南町もこれに属す、その内左のごとく分る、
 南町―奥に紅葉谷あり
 瀧町―瀧の下流通ずる所、故に名となす、祠官及び社僧の居多し
 中江町―陰徳太平記に、柳小路とあり
 久保町―瀧町に属す 
 中西町―御子内侍小路、五間屋町、みな此町の内なり
 大西町―大元に通ふ山路あり
 
戸口
家  千二十八戸
人  三千七百三十四口
 西町 二百三十八戸、 千三百十人、 社人二百一人、僧五十人、
自餘(じよ・それ以外)町人なり(千五十九人)
 
東町 七百九十戸、 二千四百二十四人、 僧十五人

地図①-久保小路
地図②-五間屋小路
地図③-中西小路
地図④-御子内侍小路うら
地図⑤-瀧小路
地図⑥-中江小路(柳小路)
地図⑦-南町
地図⑧-大町
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76ce653c.jpeg








 【註】付立(つけたて)・・・帳面にしるしをつけること
 
参考文献:「厳島神社門前町 廿日市市厳島伝統的建造物群保存対策調査報告書」
              
廿日市市教育委員会  平成19

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歴史
2011/05/17
「嚴島内侍の名前」

 安芸国厳島神社の内侍は巫女で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の
旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った。

 
平安末期、治承元年(1177)十月十一日(新暦1177年11月10日)平相国清盛が平家一門と厳島に参詣し、社頭において習礼・臨時祭・万燈会・千僧供養・一切経会・引声等の諸行事の模様を詳細に書き留めた伊都岐嶋千僧供養日記」に12人の妓女が名を連ねている。
・黒内侍
・普賢内侍
・文珠内侍
・弥陀内侍
・万寿内侍
・多門内侍
・釈迦内侍
千歳内侍
・乙内侍
・地蔵内侍
・弥陀内侍
・薬王内侍
  
嚴島野坂文書121号 天文十年七月五日(新暦1541年8月6日)
本内侍

 

三老(御子内侍)
四老
五老
六老
七老
八老

九老 
十老
韓神内侍(からかみ)

手流内侍

 

田内蔵助娘
田将監女房
飯田孫九郎女房   
熊野刑部丞女房
河田内蔵助女房
難波左馬允女房  

南内侍
福松         
植木内侍
紀伊

嚴島野坂文書1893号 慶長十三年正月(新暦16082)
たかはやし
とくしゅ
みこ
四りやう(老)
五りやう
六りやう
七りやう
八りやう
わごん
からかみ

いゝた
せん松
みやま
おみや
さいつる
きい
うへき
みやつち
たかい
ねゝい
いしだ
あねい
さいまつ
かなちよ
かわの
 
嚴島野坂文書1894号 慶長十五年三月三日(新暦1610426)
たかはやし
四老内侍
五老内侍
六老内侍
七老内侍
八老内侍
田内侍
飯田内侍
和琴内侍(わごん)
から神内侍
高井内侍
みそへ(溝部)内侍
植木内侍
千松内侍
河野内侍(かわの)
おミや内侍 
きい内侍
さい鶴内侍
あねい内侍
宮槌内侍
御子内侍
かなちよ内侍
宮熊内侍
せん内侍       
とく寿内侍
石田内侍
ねゝい内侍(寝々)

江戸中期1697年成立「厳島道芝記」社家供僧内侍并諸役人神人之名の内侍」
の条に「八乙女」亦「本内侍」と称したことがみえる。

 

一﨟内侍 号竹林
二﨟内侍 号徳寿
三﨟内侍 号御子
四﨟内侍 号
五﨟内侍
六﨟内侍
七﨟内侍
八﨟内侍
(ろう)とは年功による序列のこと。
 
手長内侍(てながないし)

 

和琴内侍
韓神内侍
高井内侍
石田内侍
飯田内侍
植木内侍
河野内侍
御添内侍
金千代内侍
才鶴内侍 
千  内侍
千松内侍
才松内侍
宮松内侍
宮鶴内侍
宮  内侍
宮能内侍
宮槌内侍
河田内侍
姫  内侍
望月内侍
紀伊内侍
春  内侍 
寝々内侍
梅  内侍 
姉  内侍
地  内侍

 諸所内侍

 

藤壷内侍
梅壷内侍
次郎御前内侍   
霧内侍
妹内侍

(註)原則厳島野坂文書のママ記載(例:宮熊内侍と宮能内侍
参考文献: 「広島県史 古代中世資料編Ⅱ(厳島文書編1) 厳島野坂文書]



歴史
2011/05/16
「嚴島合戦後の嚴島キリシタン事情」

ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)1525年(大永5年)頃にポルトガルのアヴィシュに生まれたとされる。イエズス会に入会し、1551年(天文20年)、兄弟らとともにインドのゴアに入り、司祭となる。1554年(天文23年)にはゴアを発ち日本へ向かった。
1556年(弘治2年)、イエズス会インド副管区長ヌーネス・バレトとともに豊後府内(現大分市)に上陸し、日本での布教活動を開始した。1558年(永禄元年)バルタザール・ガーゴ神父に代わり平戸布教を担当し、約1500人に洗礼を授けたが仏教徒と対立し、領主松浦隆信 (道可) により退去を命じられ、一時府内に戻った後、コスメ・デ・トーレスの指示を受け、京での布教を目指した。
翌1559年(永禄2年)、日本人の肥前白石(現在の平戸市)出身で、目が不自由で琵琶法師であったが、フランシスコ・ザビエルに出会って洗礼を受けたロレンソ了斎(ロレンソりょうさい)ら同伴者二人と京都入りを果たす途中、船は嚴島に碇泊(ていはく)した。嚴島合戦の4年後の事であった。
ガスパル・ヴィレラ神父一行は島内で唯一のある信者を知った。フランシスコ・ザビエルから山口で洗礼を受けたフェリペという老人とその妻で、キリシタン弾圧で山口から逃れ来たが十年間というもの神父にも会わず、貧困の中嚴島で過ごしてきたため、一行が自分たちの家に泊まることを非常に喜んだという。フェリペは自分たちがここに来て最初の数年は、地震や火事、夜聞こえる騒動、あの神社も燃え上がり、山も家も崩れるかと思われるほどであり、苦しめられたことを神父に話した。
1574年(天正年)、日本地区布教長フランシスコ・カブラルが京都へ行く途中山口に寄り、嚴島で八十二歳になっていたフェリペを訪問し一泊した。
 
 
参考文献 :「芸備キリシタン史料」H・チーリスク編著 吉川弘文館 1968年
参考Webウィキペディア 「ガスパル・ヴィレラ」最終更新 2010年12月9日 (木) 09:56、
                  「ロレンソ了斎」最終更新 2010年10月24日 (日) 04:50



歴史
2011/05/15
「屏風の名称  -紙本墨書尊海渡海日記-」

前回の尊海 紙本墨書尊海渡海日記は屏風に裏書されている。
今回は屏風の名称について確認。
に幾つも連なった屏風(びょうぶ)の面の、一つの面を指して「扇(せん)」と呼ぶ。扇は向かって右側から左に向かって、第一扇、第二扇と数える。折れ曲がった扇の数によって、屏風の形状は「二曲(きょく)」「四曲」「六曲」などと数える。 また左右で二つのものが対になって機能する一組になった屏風は「双(そう)」と数える。対になっていない片割れだけのものは「隻(せき)」と数える。
(左右で対になる一双(いっそう)屏風の例)
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一双屏風には、右隻と左隻で違う画面を描きながら、互いに対の関係となっているものがよく見られる。六つの扇(せん)は向かって右側から、右隻第一扇、右隻第二扇、  左隻第一扇、左隻第二扇と呼ぶ。
 落款は書画を制作した際に制作時や記名を書き込んだもので、一双屏風の場合、落款は原則として右隻のいちばん右端と左隻のいちばん左端に記される。従って落款の位置で、屏風のどちらが右隻でどちらが左隻かが判明する。
 
前回の紙本墨書尊海渡海日記〈(八曲屏風裏書)/表ニ紙本墨画山水図アリ〉について文化庁のデータベースによると員数:一隻とある。隻とは、屏風など対(つい)になっているものの片方を数えるのに用いるので、八曲一隻の屏風なのか?。
 
参考Web:「滋賀県立近代美術館 屏風を鑑賞するための基礎知識(1)」より引用 2011年5月13日 AM7:54  http://d.hatena.ne.jp/shiga-kinbi/20110304/1299196884



 

歴史
2011/05/14
「尊海 紙本墨書尊海渡海日記」

 尊海(そんかい)は、厳島の真言宗亀居山放光院大願寺(ききょざんほうこういんだいがんじ)の僧である (?~1549)。 建仁年間(1201~1233)僧了海により再興されたとされる大願寺には、戦国時代の天文八年(1539年)九月十日尊海が一切経を求めて朝鮮に渡った時の紀行を裏張りにした「紙本墨書尊海渡海日記」(しほんぼくしょそんかいとかいにっき)(八曲屏風裏書)のレプリカがある。明治43年(1910)4月20日に国の重要文化財の指定を受けた。現在は東京国立博物館に移管されている。

文化庁 国指定文化財等データベース 国宝・重要文化財(美術品)に詳細が記録されている。

 

名称:紙本墨書尊海渡海日記〈(八曲屏風裏書)/表ニ紙本墨画山水図アリ〉
しほんぼくしょそんかいとかいにっき(はっきょくびょうぶうらがき)
員数:一隻、 種別:古文書、 時代:室町、 重要文化財(美術品)、
重文指定年月日:1968.04.20(昭和43.04.20)、
所在都道府県:広島県、 所有者名:大願寺、と登録
ただし、1968.04.20(昭和43.04.20)、とあるがこれは誤りで、
1910.04.20(明治43.04.20)が正しい。
2011/5/14現在、文化庁の国指定文化財等データベースは錯誤のまゝの為注意。

※この件、2012/4/24 広島県教育委員会秘書広報室を通じて錯誤を指摘。
2012/5/8 文化庁の国指定文化財等データベースで、1910.04.20(明治43.04.20)
に修正されていることを確認。

        
文化庁 http://www.bunka.go.jp/
        国指定文化財等データベース 
        文化財分類ごとに見る ― 国宝・重要文化財(美術品)
        都道府県ごとに見る ― 広島県 ― 158件中1件から20件のデータです―
          3ページ目の41件から60件のデータです の5行目が該当箇所。



【史料1】

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【史料1】は「広島県史 古代中世資料編Ⅲ(厳島文書編2)大願寺文書」所収 補遺二 大願寺尊海渡海日記の冒頭部を加工したものである。
そこには、尊海が高麗に赴くことになった経緯が記されている。毛利と陶の嚴島合戦の13年前のことである。
安芸嚴島大願寺の湯殿の行人道本が、当社(嚴島社)に一切経はあるが古くて痛んでいるので、末世の為に手に入れ備える爲、印漢と云う僧を天文六年八月二日(新暦1537年9月16日)防州(周防)に遣わし、御屋形(大内義隆)様の疏(書簡)・勘合に印を頂かせ、高麗国への進物をととのえ、博多に向かわせたのは天文七年五月十二日(新暦1568年6月18日)であった。大願寺の廿日市平良庄生まれの尊海が印漢に相添(あいそう)ことになり、博多で追い着いた。七月一日(新暦8月5日)乗船して、七月八日(新暦8月12日)壱岐嶋着岸、翌九日出港、十日の未明に対馬の府中に着いた。去る事(然る事)があって、船頭決まらず、九月二日対劦の宋孫三郎長幸と防劦渡辺右衛門尉両人の船頭が決まった。すでに天文八年春を迎えた。印漢はある夜夢を見た。府中の八幡の詣で、くじを取ったところ高麗に渡っても一切経は有るべからずと下されたと称し船頭たちともめ、公務を放棄してしまった。
尊海は中絶のままでは、外聞をはばかられるので、責而(せめて)高麗に渡って、一切経の実否(本当かうそか)を確かめるため、上官使となって四月十四日(新暦1539年5月12日)府中を出港して、五月九日(新暦1539年6月5日)高麗于(高麗に使者としておもむく)釜山浦(フサンカイ)着岸。
 
尊海については、大願寺の僧以前についてはほとんど不詳である。しかしこの日記の中で生国に触れている箇所があり発見である。大願寺之内生国藝州平良之庄之仁

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参考文献:「広島県史古代中世資料編Ⅲ(厳島文書編2)補遺二 大願寺尊海渡海日記」
       「日朝関係史の研究(上) 中村栄孝」 吉川弘文館 昭和45年 5月1日再販
参考Web:「文化庁 国指定文化財等データベース 国宝・重要文化財(美術品)(2011年5月14日)
                  http://www.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=201&item_id=9604




 

歴史



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