厳島神社は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にあり、1400年の歴史をもつ日本全国に約500社ある厳島神社の総本社である。社殿のある三笠浜(みかさのはま)を囲むように突出した東の宮崎と西の西崎との間に、本社火焼前(ひたさき)より八十八間の沖合に高さ16㍍の朱の大鳥居が建つ。この色は光明丹(こうみょうたん)という顔料の一種の酸化鉛で、鉛ガラスの原料や陶磁器の釉などのほか多く錆止めなどに使われる。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、光明丹で錆(さび)どめを施されたこの両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居(よつあしとりい)、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。
2時-夜八ツ(丑ノ刻)
3時-八ツ半
4時-暁七ツ(寅ノ刻)
5時-七ツ半
6時-明け六ツ(卯ノ刻)*夜が明ける
8時-朝五ツ(辰ノ刻)
9時-五ツ半
10時-昼四ツ(巳ノ刻)
11時-四ツ半
13時-九ツ半
14時-昼八ツ(未ノ刻)
15時-八ツ半
16時-夕七ツ(申ノ刻)
17時-七ツ半
18時-暮れ六ツ(酉ノ刻)*日が暮れる
天文(てんぶん)十四年(一五四五)毛利元就夫人妙玖みょうきゅうは四十七歳で没しました。夫人の死は大きな衝撃であったようで、元就は翌天文十五年(一五四六)六月前後に隆元に家督を譲り隠居します。
佐東郡の内二千貫余を隠居領として支配していました。九年後、弘治元年(一五五五)十月朔(さくじつ)日の厳島合戦の折は、嫡男の隆元が毛利家総領の立場でした。
厳島合戦の半年後には、元就は、厳島合戦勝利の上陸地である包之浦に鎮座する包浦御社に神田を寄進することを大願寺に約束しています。(「包浦御社江神田可致寄進候、貢數在所等而可申付候、此旨可有御祈念候、恐々謹言 弘治二年三月二日元就(花押)」毛利元就寄進状 大願寺文書95)。
島巡り神事は、養父崎(やぶさき)神社で行わ行われる「御鳥喰式(おとぐいしき)」を重要な儀式として、厳島神社の姫神(ひめがみ)が鎮座場所を探し、神鴉(おがらす)を先導役に浦々を巡ったことに因(ちな)む行事です。元就は元亀(げんき)二年(1571年)六月十四日、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に於いて死去。享年75。死因は老衰とも食道癌とも言われる。(厳島神社本社入口脇の石灯籠の笠に神鴉(おがらす)は鎮座)