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廿日市の郷土の歴史・文化などの情報発信


2024/11/23
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2011/05/13
「両部鳥居(りょうぶとりい)」

819a41c4.jpeg厳島神社は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にあり、1400年の歴史をもつ日本全国に約500社ある厳島神社の総本社である。社殿のある三笠浜(みかさのはま)を囲むように突出した東の宮崎西の西崎との間に、本社火焼前(ひたさき)より八十八間の沖合に高さ16㍍の朱の大鳥居が建つ。この色は光明丹(こうみょうたん)という顔料の一種の酸化鉛で、鉛ガラスの原料や陶磁器の釉などのほか多く錆止めなどに使われる。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、光明丹で錆(さび)どめを施されたこの両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。b0a73250.jpeg名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居(よつあしとりい)、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。

大願寺の記録によれば、西暦1286年11月19日再建、北朝1371年5月再建、1547年大内義隆再建、1562年1月13日毛利元就・隆元再建(大願寺文書121号より永禄4年11月28日と日付類推)、元文四年九月五日落成、享和元年四月二十五日落成、明治八年七月十七日上梁と七回再建されている。巷間、平安末期以来、明治八年の建立で八代と云われている。
昨年9月、廿日444dab05.jpeg市市役所ホールに宮島工業高校製作の大鳥居の模型が展示されていた。脚柱部の地中に数百本の木杭が打ち込まれていると子供時分に聞いた記憶のイメージ通り、その様子が模型で再現されていた。大鳥居は地中に木杭で基礎を固めているが、基礎の上に乗っかっているだけで、笠木の下の島木を箱型にし、中に小石を数トン入れて、鳥居の自重で倒壊しない工夫がされている。





 
 
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歴史
2011/05/12
「経塚」

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2011年8月オープンを目指し現在リニューアル工事中の“みやじマリン” のそばの小高い丘が経尾(きょうのお)と呼ばれる。文政8年(1825)にできた「藝藩通志巻16名勝古蹟」に経尾について「大元へゆく路の岡にあり、傳へ云、平相国(平清盛)が一石一字(いっせきいちじ)の法華経を、こゝに埋めしと、今も一石搭あり、其処より経字石を出すことあり、此地の草樹は、釆樵(きこり)すれば祟(たた)りありとて取らず」とある。

写真の積石、経塚(清盛塚)などは後世のものといわれている。
眼下右に嚴島神社・朱の大鳥居、遥か正面に廿日市を望む。


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歴史
2011/05/08
「江戸時代の時」

午前
0時-夜九ツ(子ノ刻)
1時-九ツ半
2時-夜八ツ(丑ノ刻)
3時-八ツ半
4時-暁七ツ(寅ノ刻)
5時-七ツ半
6時-明け六ツ(卯ノ刻)*夜が明ける
7時-六ツ半
8時-朝五ツ(辰ノ刻)
9時-五ツ半
10時-昼四ツ(巳ノ刻)
11時-四ツ半
 
午后
12時-昼九ツ(午ノ刻)
13時-九ツ半
14時-昼八ツ(未ノ刻)
15時-八ツ半
16時-夕七ツ(申ノ刻)
17時-七ツ半
18時-暮れ六ツ(酉ノ刻)*日が暮れる
19時-六ツ半
20時-宵五ツ(戌ノ刻)
21時-五ツ半
22時-夜四ツ(亥ノ刻)
23時-四ツ半

     「時刻図」

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歴史
2011/05/07
「厳島合戦勝利後の元就」

  天文(てんぶん)十四年(一五四五)毛利元就夫人妙玖みょうきゅうは四十七歳で没しました。夫人の死は大きな衝撃であったようで、元就は翌天文十五年(一五四六)六月前後に隆元に家督を譲り隠居します。

佐東郡の内二千貫余を隠居領として支配していました。九年後、弘治元年(一五五五)十月朔(さくじつ)日の厳島合戦の折は、嫡男の隆元が毛利家総領の立場でした。

厳島合戦の半年後には、元就は、厳島合戦勝利の上陸地である包之浦に鎮座する包浦御社に神田を寄進することを大願寺に約束しています。(「包浦御社江神田可致寄進候、貢數在所等而可申付候、此旨可有御祈念候、恐々謹言 弘治二年三月二日元就(花押)」毛利元就寄進状 大願寺文書95)。

毛利氏により新しい要素を取り込み、往古の神事・祭礼が復興されることになります。また毛利氏のための臨時の神事・祭礼・戦勝祈願も行われるようになります。

22291f84.jpeg島巡り神事は、養父崎(やぶさき)神社で行わ行われる「御鳥喰式(おとぐいしき)」を重要な儀式として、厳島神社の姫神(ひめがみ)が鎮座場所を探し、神鴉(おがらす)を先導役に浦々を巡ったことに因(ちな)む行事です。元就は元亀(げんき)二年(1571年)六月十四日、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に於いて死去。享年75。死因は老衰とも食道癌とも言われる。(厳島神社本社入口脇の石灯籠の笠に神鴉(おがらす)は鎮座)



 

二〇一 毛利元就供米返事 (厳島野坂文書)
包浦御祭礼被相調御久米送給候、尤目出候、殊御祭日十月一日ニ被相定之由、是又肝要候、弥(いよいよ)御祈念存候、猶重□可申述候、恐々謹言、
(弘治三年カ)
十月四日              元就(花押)
棚守左近衛将監殿
(圓海)
大願寺 御返報
 
包之御祭(つつみのおんまつり)は、弘治二年三月二日、厳島合戦で勝利した元就が自らの隠居領である佐東五ヶ村の内から祭田を寄進して始めた祭りで、合戦と同じ十月一日に定められ、祭田を預けられた大願寺の僧尊海(そんかい)が包之浦御社の造営にあたり、厳島合戦の勝利を祝い、祭りを調(ととん)えたのです。
毛利元就供米(くまい)返事は、包之御祭が無事に房顕・尊海によって調えられ、久米を送られたことへの礼状です。厳島社では、神様にお供えされた御供米(ごくまい・厳島神社では現在これを「御久米・くめ」と云うようです)をお祀(まつ)りの終わったあと檀那衆に配るということをしていたようです。厳島大明神の信奉者にとっては、御久米(くめ)をいただけるということは、大変嬉しく、光栄なことなのです。
(弘治三年カ)十月四日とありますが、厳島社では財政厳しき折、入目(いりめ・神事・祭礼の費用) が入った後の永禄三年(一五六〇)十月一日に執り行われたと考えられます。

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「包ケ浦神社」 (御祭神  「塩土老翁」 しおつちのおじ)

 





 



歴史
2011/05/06
「マンホールデザインの追憶」

2011年3月11日、東日本大地震で壊滅的な被害に見舞われた東北地方にみられたマンホールについて、いつの日か復興されんことを願い、万感の思いで、そのデザインに込められた町の特徴やシンボリックに表現されたモチーフをこの機にじっくりとみてみたい。    (画像をクリックすると拡大)


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歴史



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