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廿日市の郷土の歴史・文化などの情報発信


2020/02/23
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2011/05/04
「第二回征長役における宮島での混乱について」

長州征討は、一八六〇年代に、江戸幕府と長州藩の間で二次にわたって行われた戦いである。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、征長の役などとも呼ばれ、徳川幕府の滅亡をほぼ決定付けたとされる。第二次の長州征討は、第二次幕長戦争とも、また幕府軍が四方から攻めたため、長州側では「四境の役(しきょうのえき)」と呼ばれる。
 
1.長州征討とは
第一次長州征討
長州藩は尊皇攘夷①・公武合体②の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていた。しかし一八六三年(文久三年)に孝明天皇・公武合体派の公家・薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変(文久の政変)により京より追放される。一八六四年(元治元年)七月一九日には藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事進攻する禁門の変(蛤御門はまぐりごもんの変)が起こると、朝廷は京都御所へ向かって発砲を行ったことを理由に長州藩を朝敵とし、八月二日幕府に対して長州征討の勅命を下す。幕府は前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)を総督、越前藩主松平茂昭(もちあき)を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ三十六藩十.万の兵を集結させて長州へ進軍させる。
一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂し、保守派(俗論派)が政権を握る。征長総督参謀の西郷隆盛は、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃(くにししなの)・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美(さねとみ)・三条西季知(にしすえとも)・東久世道禧(ひがしくぜみちとも)・壬生基修(みぶもとなが)・四条隆謌(しじょうたかうた)ら.ご卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、藩庁はこれに従い恭順を決定する。幕府側はこの処置に不満であったが、十二月には総督により撤兵令(てっぺいれい)が発せられる。
 
第二次長州征討
一八六.年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作③らが馬関④で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた(元治の内乱)。高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊⑤や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約⑥を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。十四代将軍徳川家茂(いえもち)は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。幕府は当初.方面から長州へ攻め入る計画だった。しかし萩口を命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約(薩長同盟)で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。そのため萩口から長州を攻めることができず四方から攻めることになった。幕府は大目付永井尚志(ながいなおゆき)が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行(ながみち)を全権に内容を伝達して最後通牒(つうちょう)を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。一八六六年(慶応二年)六月七日に幕府艦隊の周防大島(すおうおおしま)への砲撃を皮切りに(大島口)、十三日には芸州口、十六日には石口、十七日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。
 
四境の役
大島口では、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩の兵が、大島に上陸し占領した。宇和島藩は幕府の出兵命令を拒んだ。幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。その後、世良修蔵(せらしゅうぞう)⑦指揮下の長州軍が大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く。
芸州口では、長州藩および岩国藩と、幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われる。彦根藩と高田藩が小瀬川であっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着(こうちゃく)状況に陥る。また芸州藩は幕府の出兵命令を拒んだ。
 
石州口では、長州藩の大村が指揮し(指揮役は清末(きよすえ)藩主⑧・毛利元純)、中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜(よしのぶ)の実弟・松平武聰(たけあきら)が藩主であった浜田藩へ侵攻し、藩主・武聡は戦わずして逃走、敗残の兵が浜田城、浜田の街に放火し同時に灰燼(かいじん)に帰した。十八日に浜田城を陥落させる。こうして明治まで浜田城と天領だった石見銀山は長州が制圧したのである。
小倉口では、総督・小笠原長行(ながみち)が指揮する九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋(あり.とも)ら率いる長州藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われ、一時肥後藩が互角の戦いを見せた(赤坂・鳥越の戦い。現在の北九州市立桜丘小学校付近)。しかし佐賀藩は兵を出さず、小笠原の指揮よろしきを得ず、諸藩は随時撤兵(てっぺい)した。将軍家茂(いえもち)薨去(こうきょ)の報を受けた小笠原も戦線を離脱し、孤立した小倉藩は八月一日城に火を放って香春(かわら)⑨に退却した。その後も小倉藩と長州藩の戦闘は続くがこれで事実上、幕府軍の全面敗北に終わる。
世情混乱 世直し一揆
戦いの長期化に備えて各藩が兵糧米(ひょうりょうまい)を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆や打ちこわしが起こる原因となった。
 
長州征伐と宮島談判
徳川慶喜に第二次長州征討の停戦交渉を任された勝海舟は一八六六年(慶応二年)九月一日、単身宮島の談判に臨み、長州の広沢真臣(さねおみ)・井上馨(かおる)と宮島 大願寺➉書院において休戦交渉の会談を開き、長州との停戦合意に至ったが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免(おやくごめん)を願い出て江戸に帰ってしまう。
 
2.宮島あたりの征長軍の様子
征長軍の嚴島渡海 〔廣島市史 第3巻 第9章第7節 浅野氏時代(幕末)第二回征長役(四)〕
六月四日(一八六六年(慶応二年)、幕府.ならびに美濃大垣の兵、廣島より嚴島に渡海し、幕府砲隊大筒方(おおつつがた)は大願寺に、幕府歩兵隊は久保田町(久保町ヵ)・南町・大西町・東町の民家に宿陣し、大垣兵は瀧本坊(たきのほんぼう)・多聞院(たもんいん)・及び瀧町(たきまち)・中江町(ちゅうえまち)の民家に宿陣す。
而(しこうして)演劇場と富座(とみざ)は兵糧方(ひょうろうかた)の詰所と為なれり、
同月七日嚴島宿陣中の幕兵の一部隊、軍艦三艘に乗組み、防州大島郡に向て出發す。
 
大島郡の砲撃
六月八日、幕艦富士山丸・翔鶴丸(しょうかくまる)・八重丸は進んで防州大島郡の多賀浦を砲撃す。敵兵の無きを見て、陸兵を上陸せしむ、(十五代将軍徳川慶喜のいとこにあたる)伊豫松山候松平隠岐守勝成(かつしげ)の軍艦、安下庄及久賀の両村を砲撃すると聞き、富士山丸を遣(つかわ)して應援す。敵兵守る能(あた)はず。兵器を棄(す)て海を渡りて遠崎(とおざき・現柳井市)に逃亡す。
武具奉行同心の「在京在坂中日記」11の記録によれば、
宮島表から大島へ出発の人数、西丸下屯所二大隊、小筒組三小隊、大砲一小隊、土工兵二小隊、騎兵組一小隊、その他、大垣藩戸田人数、弾薬・兵粮ひょうろう警衛(けいえい)として三小隊ほど出張にて、総人数は千三百人ばかりに御座候。
そのうち相戦ひ候隊は、歩兵二大隊・小筒・大砲三局ばかりにて、あとは戦ひ申さず候。実に大島を荒らし候事は言語に述べ難く候。後には飼ひ置き候鶏はもちろん、牛まで殺し相食ひ申し候。右につき官軍の事は、奇兵隊ども始め百姓に至るまで恐れをなし、かつ、その内にも歩兵組の事は、「鍋かぶりの千人隊」と号なづけ、白胴朋、別してその内にも撤兵隊の黒筋入りなど身請け候得ば、
博徒どもは申すに及ばず、百姓・町人まで腰を抜かし、居座り同様の振舞いなり。
このように、大島に上陸した西丸下屯所の二大隊が中心となって傍若無人な振舞いをしたのである。この住民の惨状は藩内を憤激させ、高杉晋作の奇兵隊の一部が小倉口から退勢挽回のため大島方面に差し向けられた。六月十四日の朝、海の向こう藝州口方面で戦火が上がるのを見た。翌一.・一六両日長州第二奇兵隊・洪武隊六大隊が総攻撃を掛け、戦意喪失の松山勢は総員安下庄(あげのしょう)から船で大島を引き揚げた。一七日幕艦富士山丸、翔鶴丸からの掩護(えんご)射撃に助けられ最後に残った幕府兵が命からがら収容され大島から撤収できたのである。
 
大竹川(一名小瀬川)合戦
慶應二年六月十四日未明、長防軍は豫備し渡船籔十艘にて大竹川を渡り、隊を三分し、一隊は小方村に向ひ・一隊は大甲良山に登り油見村を瞰下し、又一隊は河岸に沿ひ大竹村に向ひて進む。五伊掃部頭(近江國彦根候)の本隊亦また大竹村に到着し、盛んに大小砲を放ちて、遂に和木村を燒く。岩國軍和木渡船場の長堤竹林中に潜伏し、東軍の來るを待つ。是時五伊軍の中より一騎馬武者、紅色の陣羽織を着し、鞭(むち)を擧(あ)げ、大叫(だいきょう)して進み出て、河流(かりゅう)を渡る。從兵二人これに隨(したが)ふ。・・・岩國伏兵竹林中より百銃齊發(せいはつ)す。騎武者彈丸に中(あた)り、忽(たちま)ち水中に斃(たおれ)る。從兵(じゅうへい)も亦(また)一名は戰死し一名は遁(のが)れ去る。・・・東軍俄(にわか)に伏兵の起れるを見て驚き小方村に退却せむとす、時に長防の游撃隊は三方同時に起り、山々峯々より盛んに大小砲銃を放下(ほうか)し、・・・其退路を遮(さえぎ)る。亦(ま)た河流(かりゅう)を渡りて追撃すること益々急なり。五伊・榊原の兵苦戰に陷(おちい)り、終(つい)に陣を玖波の海濱(かいひん)に移し、堤防に據(よ)りて砲戰せしも、三方の敵軍に包圍(ほうい)せられ、援軍も亦た來ずして遂に支ふる能(あた)はず。掃部頭(かもんのかみ)は運送船に乗じて廣島に逃れ還(かえ)り、誓願寺の本陣に入る。敗兵(はいへい)の多くは海濱に沿ひて廿日市に敗走し、又は先を爭ひて漁船に乗じ、嚴島に遁(のが)るゝもの.なからず(嚴島神社棚守職(たなもりしき)野坂氏の記録に據よれば、是時(このとき)嚴島須屋室濱(すやむろはま)に遁(のが)れ來たる者のみにても三百人なりと)・・・長防軍の游撃隊は大竹・油見を焼き拂ひ、小方村に陣す。是
日東軍敗兵の大竹村に遺棄せし甲冑(かっちゅう)・銃砲・刀槍(とうそう)の類(たぐい)甚(はなは)だ多く、長兵これを収めて道路に丘をなせり・・・云々。
 
三.嚴島神社の祭事 管絃祭と宮島歌舞伎の興行中止へ
「征長軍の嚴島渡海」之項で「演劇場と富座は兵糧方(ひょうりょうかた)の詰所と為なれり」とあります。これが原因で慶応二年旧暦六月十七日の管絃祭が前代未聞の原因で中止となります。春市、秋市に対し夏市は殊に盛んで、六月十日から七月七日迄を夏市と云う。因みに春市は三月十日より四月八日、秋市は九月十日より三十日に訖おわり、この年中の三市の夏市が中止となったのです。第二次長州征討の征長軍の宮島への入いり込こみが有ったことで、七月十四日の延年祭(玉取祭)も中止に追い込まれました。征長軍の宮島への入込は慶応二年六月二日夜より.々あり、三日宿割りの知らせ有り、四日、町屋は残らず宿陣成る。
こうして征長軍の宿陣の白羽の矢が当たった宮島は、島挙げての最大の夏市と管絃祭を執り行う大事な時機に、島内多人数の入込で大変な状況となった。大芝居の行われる演劇場と、市立(いちだて)の時富籤(とみくじ)の売られる富座が、鍋・釜持ち込み、煮炊きの場となった為市立(いちだて)も到底成り立たず、また芝居小屋も兵糧(ひょうろう)場所になり芝居も出来ず、芝居の一座は引き払い、芝居船は十二日帰ってしまった。
結局この年の行事は、管絃祭が十月十七日、延年祭が翌日に延期され実施されたのである。
 
【註】
① 尊皇攘夷-王を尊び外圧・外敵を撃退しなければならないとする思想。
② 公武合体-江戸時代後期(幕末)に公家(朝廷)の伝統的権威と、武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再構築をはかろうとした政策論をいう。
③ 高杉晋作-幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍。元治元年、俗論派打倒のために功山寺(長府)で挙兵。
④ 馬関-下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれており、これを赤馬関とも書いたことから、これを略した馬関という別名も用いられた。
⑤ 奇兵隊-奇兵隊などの諸隊は一八六三年(文久三年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。
⑥ 薩長盟約-慶応二年一月二十一日に幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治。軍事的同盟である。薩長同盟、薩長連合ともいう。
⑦ 世良修蔵(せらしゅうぞう)- 周防国大島郡椋野村の庄屋中司家の出で、十七歳の時萩明倫館に学び、後に大畠村で海の守りを説いた海防かいぼう僧そう月性げっしょうの時習館(清狂草堂)に学び、さらに江戸では儒者安五息軒の三計塾塾長代理をつとめた。その後、周防阿あ
月つき領主浦靱負うらゆきえが開設した私塾克己堂の兵学等の講師として仕官した(この当時既に士分となっており、大野修蔵と名乗っていた)。
⑧ 清末藩(きよすえはん)- 江戸時代の藩名。長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩。長州藩の孫藩にあたる。藩庁は清末陣屋に置かれた。
⑨ 香春(かわら)- 福岡県田川郡に属す香春町で、.木寛之の小説『青春の門』に登場し有名になった香春かわら岳だけ(地元では、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と呼ぶ事が多い)が町域西部にある。
➉大願寺(だいがんじ)- 安芸の厳島神社の西回廊を出て、御手洗川を渡り右手にある「亀居山放光院大願寺(ききょざんほうこういんだいがんじ)」。亀居山(ききょざん)とは、神社東側の千畳閣や.五重塔のある「塔岡(とうのおか)」の別称にて、往時この岡の下にありしが山号の由縁なり。室町時代より明治初年の廢佛毀釋(はいぶつきしゃく)まで、厳島神社の普請奉行(ふしんぶぎょう)として、鍛冶、番匠(ばんしょう・大工)、桧皮師(ひわだし)といった職人集団を率い修理造営を行ってきた。
⑪「在京在坂中日記」 『日本庶民生活史料集成』第十二巻所収 三一書房 一九七一年
 
【参考文献】
廣島市史 第参巻 廣島市役所 昭和四十七年
廿日市町史 通史編(上) 廿日市町 昭和六十三年
宮島歌舞伎年代記 蒲田太郎・純一郎 国書刊行会 昭和.〇年
元凱十著 (モトヨシ ジュッチョ)所収 廣島雑多集 小鷹狩元凱 (コタカリ モトヨシ)東京 弘洲.屋発行 昭和五年
幕府歩兵隊 野口武彦 中央新書 二〇〇二年

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