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廿日市の郷土の歴史・文化などの情報発信


2024/05/07
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2013/09/12
「佐方 八幡神社」

その昔(中世以前)は、洞雲寺の前あたりまで海が入り込み、佐方八幡宮の前

あたりが海辺で狭潟(遠浅の海の地形)となっていた。

江戸時代の初めに海岸線沿いの西国街道が整備され、その道路敷きが堤防

の役割を果たして、広い干拓地が形成された。

 

文政八年(一八二五)約180年前に完成の廣島藩領内の地理や歴史を記した

『芸藩通志』によれば、佐方 八幡宮は今から400年前に、毛利家より神田の寄

進があったらしい。

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神社・仏閣
2013/09/12
「古刹 曹洞宗 洞雲寺」

洞雲寺は極楽寺山麓南側に位置する曹洞宗の寺院。

長享元年(1487)、今から520年前、厳島神社神主藤原教親が、

当時、西の京といわれて文化の中心であった周防の龍文寺の金岡

用兼禅師を招き開山した神主家の 菩提寺です。

 

境内には厳島神主家であった藤原氏一族と、藤原神主家が滅んだ

あと桜尾城に関係した毛利家の桂元澄・毛利元清夫妻及び厳島合

戦で毛利元就に敗れた敗将の陶晴賢など廿日市市内で戦国時代の

歴史上有名な侍の墓が今でも残っている。


神社・仏閣
2013/09/12
「厳島神主家の居城  桜尾城」

神主佐伯影弘の時代、隆盛を極め、仁安三年(1168)現在のような原型ができ、
こうして、平家一門の崇拝により厳島神の社運は盛大となっていった。

文治元年(1185)壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したことは、歴史上大きな変革と
なり、神主佐伯氏の勢力も衰退し、厳島神社は承元元年(1207)に続き、貞応
二年
(1223)二度目の火災後は、12年もの間、神社の再建ができなかった。
そこで鎌倉幕府の御家人で周防の守護職であった藤原親実に神主職を譲り、親
実は神主職
(承久三年(1221)と安芸国守護職(文暦二年(1235))を 兼ね、
厳島神社は再建することができた。

親実はその後、周防の守護職に帰り、武田氏が安芸国守護職になる。藤原親実
の子孫は神主職を世襲し、承久の乱のあった承久三年
(1221年)から天文十年
(1541)4月5日友田興藤が桜尾城に火をつけ自決し、大内義隆により亡びる。

こうして、藤原神主家の滅亡まで、三百十年ばかり厳島神社の神主として、また
その神領地の支配のため、その本拠を桜尾城に置いていた。
 

歴史
2013/09/11
「「厳島社参・弥山登山に付休暇許可状」」

嘉永年間と思われるある年の「厳島社参・弥山登山に付休暇許可状」 正月十三日
       
       今中大学
       築山大蔵
今中権六殿  二川清記
       寺尾石見


御自分儀宿願二付
厳島社参弥山
登山も支度依之
往来御日数二日御暇
之儀願之通被 
仰出候間其旨可被
存候以上

 正月十三日


これは、今中権六が宿願の厳島社参・弥山登山のため、二日間の願い出に対する許可状である。
このことから、藩から、広島藩士が一定の行動の制約を受けていたことは明らかである。

(参考:「今中文庫目録」-近世今中家と広島藩ー)

歴史
2012/04/24
「2012年4月目次」

1.2012年4月15日    「平清盛は「宮島」と呼んでいた?」
2.2012年4月16日    「平清盛は「瀬戸内海」と呼んでいなかった?」
3.2012年4月20日    「御子姫君(みこのひめぎみ). 」.



2012年4月目次



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