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廿日市の郷土の歴史・文化などの情報発信


2024/04/26
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2013/09/18
「正覚院の時太鼓」

正覚院は、真言宗 篠尾山(ささおやま)と号し、天平(てんぴょう)九年(737)行基菩薩開基と伝えられる。

廿日市市重要文化財で旅の守り神とされる十王像があり、廿日市宿に入った旅人はまず十王十王に今回の旅の安全を祈願し、再び西へ東へと次の宿へ急ぐのであった。

天文二十四年(1555)厳島の合戦より三十年経った天正(てんしょう)十三年(1585)当時の厳島神社神主家の居城であった桜尾城主・毛利元清(毛利元就の四男)がオランダ製の時計を正覚院に寄進した。

それは時計が日本に渡来して四十年ほど後のことであった。正覚院の住職は何か利用できないものかと考えついたのが、この時計を頼りに太鼓を打ち、人々に「時」を知らせることであった。四月から九月の間は、朝五時を一番太鼓、七、十、正午、二、四、六、八、十時の九回。十月から翌三月の間は、朝六時、八、十、正午、二、四、六、八、十時と同じく九回太鼓を打ち鳴らした。

その音は、宮島の長浜、杉の浦、さらに遠く能美辺りまで届き、当時時計を持たない人々から大変便利がられたという。明治十七年(1884)四月二十六日、正覚院は火災により炎上、その時この時計は灰となってししまったという。

その後、社会は進歩し、眼下に望む二号線を走る車の騒音などで存在価値が薄れ、昭和三十七年町の補助金も打ち切られた。天正以来、三七七年の長きに渡り、時太鼓は打ち鳴らされ廿日市の人々に「時」を知らせ続けてきた「正覚院の時太鼓」はこうして時代の波に勝てず、終焉を迎えるのであった。
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歴史
2013/09/18
「廿日市市中央市民センター建替え決定」

当廿日市宿は明治になって、江戸時代の宿場町の機能を失ったが、6町35ヶ村の中心として廿日市に佐伯郡役所が置かれた。
昭和
46(1971) 公民館建設のため、明治建築の元佐伯郡役所庁舎が解体された時の棟札によると、明治20(1887)1222日竣工となっている。

中央市民センターは昭和47年(1972)建設で老朽化しており、解体に伴い発掘調査する。

多目的ホールや研修室などの機能を保ちつつ、延べ床面積を約3割縮小。駐車場の台数は40台程度に増やす。佐伯郡役所時代からの名物のクスノキは残すという。

2014年度に解体、2年後の2016年度の完成を予定している。

      佐伯郡役所    平成25年現在の
            中央市民センター 

(参考:ふるさと写真集 廿日市市教育委員会より)
          はつかいち市民図書館蔵


  
       


歴史
2013/09/14
「亥の子」

亥の子
十二支も最後の「亥」まで来れば次は新しい循環の始まり「子」に転ずる。
 
亥の月は旧暦10月(概ね新暦11月)

亥の刻は午後10時を中心とする約2時間

亥の方は北西よりやや北寄り(北西微北:北基準右廻り330°)の方角である。

「亥ノ日(ふた)ツ之時ハ初ノ亥ノ日、三ツノ時ハ中ノ亥ノ日」   旧暦十月初亥の日の亥の刻(午後9時~午後11時)に「亥の子の祝い」をし,無病息災・子孫繁栄を祈った。

旧暦10月(亥ノ月)で、亥ノ日が2回あるときは初めの亥ノ日の亥の刻(午後9時~午後11時)に、3回あるときは中の亥ノ日にお祝いし、無病息災・子孫繁栄を祈る習わしであった。

◆子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る。

亥の子餅
「旧暦十月亥の日に餅を食えば、万病を除く」


粒あんを胡麻入りの求肥の餅生地で包み、上からきな粉をかけたもの。

黄粉・胡麻・干柿を混ぜ込んだ餅製の生地でこし餡を包んだもの。
 
   各種亥の子餅例

の月、亥の日は「炬燵(こたつ)の日」
旧暦の十月は初冬である。だんだん寒くなり、武家も町屋も冬支度をする。

武家屋敷の「炬燵開き」は、旧歴十月の初亥の日(最初の亥の日) に、
「炉開き」をしていました。
江戸町屋の一般庶民は、旧暦の十月の二番目の亥の日が炉・炬燵開きです。


    炬燵開き」がなぜ「亥の日」なのか。
   

    旧暦では、月にも十二支(子、丑、寅、)が割り振られている。
   「旧暦の月の干支」表より、十月は亥の月である。亥の日の亥(イノシシ)は、
    火(火難)を免れるという信仰があった。そこから亥の月の亥の日に火(暖房器具)
   
を使い始めれば、その冬は火事にならないと信じられていたからである。

   (旧暦の月の干支)
   
一月 寅二月 卯.  三月 辰,  四月 巳,  五月 午,  六月 未, 七月 申,  八月 酉,   九月 戌,  十月 亥,  十一月 子, 十二月 丑,

『絵本常磐草』享保15(1730) 

こたつで本を読む女性たち

『江戸風俗図絵』(柏書房)より

http://www.cleanup.co.jp/life/edo/53.shtml

亥子突き

昭和40年代になると、亥の子歌の練習に夢中になり、宿題や勉強がおろそかになることなどから、学校が亥の子行事を禁止し廃れてしまった地域もある。
 

囃し唄(はしゃしうた)

「亥の子、亥の子、亥の子餅つかんものは、鬼生め、蛇生め、角生えた子生め、やっさが屁(へ)を煮え湯でたでて、繁盛せい、繁盛せい」


 

【広島県安芸郡 海田地区】
亥の子、亥の子、亥の子餅ついて、祝わんものは、鬼産め、蛇産め、角のはえた子産め、やっさの尻を煮え湯で焚いて、繁盛せえ、繁盛せえ

                                                                        

 
   亥乃子石

 


歴史
2013/09/13
「廿日市宿を見守る  天神の常夜灯の油料」

廿日市の湊を見下ろす天神山に鎮座する天神坊の鐘楼堂(梵鐘をつるす堂・す堂・かねつき堂)の横に常夜灯が残っています。 廿日市の問屋商人が、今から約270年前、元文三年(1738)に夜間に航行する廻船・漁船等の「ミヨ・ミヲ()ノ火」灯台として航行の安全を守り、当時真っ暗な闇夜のなか、廿日市の湊に寄港や帰港する目印として見晴らしの良い天神山に寄進したものといわれています。 
 廿日市の湊には交易のために諸国から廻船が入港しており、航行の安全と夜間の入港の目印に、適した天神山に常夜燈が設置されたのですが、実は、現存する常夜灯は明治二十三年(1890)5月に設置されたもので、海上安全と大きく刻られています。 
 常夜灯の奉納は、永代の油料も奉納します。このため一般には、その分の菜種油が採れる面積の畑を併せて奉納します。天神坊の場合は、畑ではなく灯明料として文政二年(1819)ころまで代々子孫が毎月油料を寄付していたようです。


歴史
2013/09/13
「上不見山 浄土王院 極楽寺 (じょうふけんざん じょうどおういん ごくらくじ)」

本三景の安芸の宮島を眼下に望む、絶景ビュー にある真言宗極楽寺は、

標高663㍍のモミの原生林に囲まれた極楽寺山山上 にある。極楽寺

の位置は、不思議と厳島弥山の頂上・厳島神社・御前神社の真北になる。

またこの山は、別名をその本尊、 十一面千手観音菩薩座像にちなんで、

観音山とも言う。


寺伝によれば、天平九年(737)行基が当山頂の杉の霊木で千手観音を刻

み、堂を建て開山した。その後、弘法大師が開眼供養(かいげんくよう)

され、寺の再興がはかられた。

例年 春の祭りが「4月第3日曜日」に行われる。
そのとき、十一面千手観音は御開帳される。

   
左 極楽寺本堂
右 木造十一面千手観音菩薩坐像(広島県重要文化財)


神社・仏閣



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