「正覚院の時太鼓」
正覚院は、真言宗 篠尾山(ささおやま)と号し、天平(てんぴょう)九年(737)行基菩薩開基と伝えられる。
廿日市市重要文化財で旅の守り神とされる十王像があり、廿日市宿に入った旅人はまず十王十王に今回の旅の安全を祈願し、再び西へ東へと次の宿へ急ぐのであった。
天文二十四年(1555)厳島の合戦より三十年経った天正(てんしょう)十三年(1585)当時の厳島神社神主家の居城であった桜尾城主・毛利元清(毛利元就の四男)がオランダ製の時計を正覚院に寄進した。
それは時計が日本に渡来して四十年ほど後のことであった。正覚院の住職は何か利用できないものかと考えついたのが、この時計を頼りに太鼓を打ち、人々に「時」を知らせることであった。四月から九月の間は、朝五時を一番太鼓、七、十、正午、二、四、六、八、十時の九回。十月から翌三月の間は、朝六時、八、十、正午、二、四、六、八、十時と同じく九回太鼓を打ち鳴らした。
その音は、宮島の長浜、杉の浦、さらに遠く能美辺りまで届き、当時時計を持たない人々から大変便利がられたという。明治十七年(1884)四月二十六日、正覚院は火災により炎上、その時この時計は灰となってししまったという。
その後、社会は進歩し、眼下に望む二号線を走る車の騒音などで存在価値が薄れ、昭和三十七年町の補助金も打ち切られた。天正以来、三七七年の長きに渡り、時太鼓は打ち鳴らされ廿日市の人々に「時」を知らせ続けてきた「正覚院の時太鼓」はこうして時代の波に勝てず、終焉を迎えるのであった。PR