当廿日市宿は明治になって、江戸時代の宿場町の機能を失ったが、6町35ヶ村の中心として廿日市に佐伯郡役所が置かれた。
昭和46年(1971) 公民館建設のため、明治建築の元佐伯郡役所庁舎が解体された時の棟札によると、明治20年(1887)12月22日竣工となっている。
中央市民センターは昭和47年(1972)建設で老朽化しており、解体に伴い発掘調査する。
多目的ホールや研修室などの機能を保ちつつ、延べ床面積を約3割縮小。駐車場の台数は40台程度に増やす。佐伯郡役所時代からの名物のクスノキは残すという。
2014年度に解体、2年後の2016年度の完成を予定している。
佐伯郡役所 平成25年現在の
中央市民センター
(参考:ふるさと写真集 廿日市市教育委員会より)
はつかいち市民図書館蔵
亥の子
十二支も最後の「亥」まで来れば次は新しい循環の始まり「子」に転ずる。
亥の月は旧暦10月(概ね新暦11月)
亥の刻は午後10時を中心とする約2時間
亥の方は北西よりやや北寄り(北西微北:北基準右廻り330°)の方角である。
◆「亥ノ日弐ツ之時ハ初ノ亥ノ日、三ツノ時ハ中ノ亥ノ日」 旧暦十月初亥の日の亥の刻(午後9時~午後11時)に「亥の子の祝い」をし,無病息災・子孫繁栄を祈った。
旧暦10月(亥ノ月)で、亥ノ日が2回あるときは初めの亥ノ日の亥の刻(午後9時~午後11時)に、3回あるときは中の亥ノ日にお祝いし、無病息災・子孫繁栄を祈る習わしであった。
◆子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る。
亥の子餅
「旧暦十月亥の日に餅を食えば、万病を除く」
粒あんを胡麻入りの求肥の餅生地で包み、上からきな粉をかけたもの。
黄粉・胡麻・干柿を混ぜ込んだ餅製の生地でこし餡を包んだもの。
各種亥の子餅例
亥の月、亥の日は「炬燵(こたつ)の日」
武家屋敷の「炬燵開き」は、旧歴十月の初亥の日(最初の亥の日) に、
「炉開き」をしていました。
炬燵開き」がなぜ「亥の日」なのか。
「旧暦の月の干支」表より、十月は亥の月である。亥の日の亥(イノシシ)は、
火(火難)を免れるという信仰があった。そこから亥の月の亥の日に火(暖房器具)
を使い始めれば、その冬は火事にならないと信じられていたからである。
一月 寅, 二月 卯. 三月 辰, 四月 巳, 五月 午, 六月 未, 七月 申, 八月 酉, 九月 戌, 十月 亥, 十一月 子, 十二月 丑,
『絵本常磐草』享保15年(1730)
こたつで本を読む女性たち
『江戸風俗図絵』(柏書房)より
http://www.cleanup.co.jp/life/edo/53.shtml
亥子突き
昭和40年代になると、亥の子歌の練習に夢中になり、宿題や勉強がおろそかになることなどから、学校が亥の子行事を禁止し廃れてしまった地域もある。
囃し唄(はしゃしうた) 「亥の子、亥の子、亥の子餅つかんものは、鬼生め、蛇生め、角生えた子生め、やっさが屁(へ)を煮え湯でたでて、繁盛せい、繁盛せい」 |
【広島県安芸郡 海田地区】 |
廿日市の湊を見下ろす天神山に鎮座する天神坊の鐘楼堂(梵鐘をつるす堂・す堂・かねつき堂)の横に常夜灯が残っています。 廿日市の問屋商人が、今から約270年前、元文三年(1738)に夜間に航行する廻船・漁船等の「ミヨ・ミヲ(澪)ノ火」灯台として航行の安全を守り、当時真っ暗な闇夜のなか、廿日市の湊に寄港や帰港する目印として見晴らしの良い天神山に寄進したものといわれています。
廿日市の湊には交易のために諸国から廻船が入港しており、航行の安全と夜間の入港の目印に、適した天神山に常夜燈が設置されたのですが、実は、現存する常夜灯は明治二十三年(1890)5月に設置されたもので、海上安全と大きく刻られています。
常夜灯の奉納は、永代の油料も奉納します。このため一般には、その分の菜種油が採れる面積の畑を併せて奉納します。天神坊の場合は、畑ではなく灯明料として文政二年(1819)ころまで代々子孫が毎月油料を寄付していたようです。
神主佐伯影弘の時代、隆盛を極め、仁安三年(1168年)現在のような原型ができ、
こうして、平家一門の崇拝により厳島神の社運は盛大となっていった。
文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したことは、歴史上大きな変革と
なり、神主佐伯氏の勢力も衰退し、厳島神社は承元元年(1207年)に続き、貞応
二年(1223年)二度目の火災後は、12年もの間、神社の再建ができなかった。
そこで鎌倉幕府の御家人で周防の守護職であった藤原親実に神主職を譲り、親
実は神主職(承久三年(1221年))と安芸国守護職(文暦二年(1235年))を 兼ね、
厳島神社は再建することができた。
親実はその後、周防の守護職に帰り、武田氏が安芸国守護職になる。藤原親実
の子孫は神主職を世襲し、承久の乱のあった承久三年(1221年)から天文十年
(1541年)4月5日友田興藤が桜尾城に火をつけ自決し、大内義隆により亡びる。
こうして、藤原神主家の滅亡まで、三百十年ばかり厳島神社の神主として、また
その神領地の支配のため、その本拠を桜尾城に置いていた。
嘉永年間と思われるある年の「厳島社参・弥山登山に付休暇許可状」 正月十三日
今中大学
築山大蔵
今中権六殿 二川清記
寺尾石見
御自分儀宿願二付
厳島社参弥山
登山も支度依之
往来御日数二日御暇
之儀願之通被
仰出候間其旨可被
存候以上
正月十三日
これは、今中権六が宿願の厳島社参・弥山登山のため、二日間の願い出に対する許可状である。
このことから、藩から、広島藩士が一定の行動の制約を受けていたことは明らかである。
(参考:「今中文庫目録」-近世今中家と広島藩ー)