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廿日市の郷土の歴史・文化などの情報発信


2024/11/22
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2013/10/25
「中世山城(ちゅうせい やましろ)の遺跡七尾城(ななおじょう)」

歴史が眠る芸州廿日市には、かって中世の山城・七尾城があった。

文政2年(1819)「国郡志御用二付郡辻書出帳」に、「佐伯郡七ッ尾,佐方村岩戸尾、同村篠尾、廿日市桜尾、下平良 宮内村藤掛尾、同村越峠尾、上平良 宮内村谷宗尾、同村宗高尾 (以上古来ゟ当郡七ッ尾ト申伝へ)」とある。
 

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歴史
2013/10/15
「原神楽」

平成25年10月12日(土) 宮島を見わたす小高い丘に建つ原の伊勢神社境内舞殿において「伊勢神社神楽団」による伊勢神社奉納神楽(原神楽)が行われた。
平成24年1月26日 広島県無形民俗文化財に指定された「原神楽」は「安芸十二神祇神楽(あきじゅうにじんぎかぐら)」の一つで、舞殿を仮設する伝統や安芸十二神祇神楽の型を忠実に伝承している。
特に,神がかりを伴う「天臺将軍」は県内でわずか2例しか現存していない貴重な舞であり,この「天臺将軍」を伝承している点で,原神楽は素晴らしい。

11時前、舞殿に7・8人が天蓋(てんがい)を降ろし、くくりつけられていた飾りつけがはずされ、天蓋の四隅と中央の五方(東西南北天)に新たに米袋をくくりつけ終えると、2人の舞人が現われ、若き男女3人の大太鼓、笛、鉦(かね)の囃子(はやし)とともに、一寸の動きの休みもなく常に体を動かし続けながら、花舞、刀舞を演じ終える。
ここで鎧を着けるとアナウンスが入る。太夫の体にもう一人が鎧や飾りつけをする間も太夫は動き続けている。鎧を身に着けると舞人一人は舞殿の隅に着座し、太夫一人が刀を弓に持ち替える。弓舞の始まりである。
やおら舞殿に男衆があらわれ、舞殿の端に10人ばかり舞人を取り囲むような体制に入る。その間太夫は一人激しく、舞っている。
  
終盤を迎えると、天蓋にくくり付けた五方の米袋を弓の筈(はず・弓の両端)で順次突き破り、突き破れた米袋から白い米が舞殿にざぁーと降り注ぐと観衆から拍手が起こる。
 この頃太夫はずっと体を動かし続けており、ふらつきながらも、最後の中央の米袋を破ろうとするがなかなか命中しない。5回目の挑戦でやっと突き破れた米袋から白い米が舞殿にざぁーと滝のごとく降り注ぐと一段と大きな拍手が起こる。
次の瞬間、何が起こったのか、太夫は男衆に囲まれその様子はよく見えない。しばらく静寂が続き(5分は経過?)意外な事が起こって何が何だかわからず、ぽかんとした気分で見ていた。ふと我に返ると、神がかりを解かれた太夫は五方と地に向かい放矢し悪霊封じをする。そしてふらつく大夫は男衆に抱きかかえられて舞殿の袖に深夜0時過ぎに消えた。


 プログラム
 
 
鎧を身につける太夫(右)


五方の米袋を弓の筈(はず・弓の両端)で順次突く


太夫は男衆に囲まれる

歴史
2013/09/27
「近く創立百周年を迎える廿高の前身」

寛永8年(1631)以降、石州和紙の紙蔵としてここを中継して瀬戸内海を海路兵庫県室津まで参勤交代や特産の石州和紙など物資の輸送で往来していた津和野藩御船屋敷があった。

明暦二年(1656)には船入地移転が認められ、船入地・御船屋は、桜尾山北側で西国街道に面した位置に移転された。
こうして船屋敷は桜尾城址の西側にあり、屋敷の南側には船の出入りができ、物資の積み込みを行っていた。停泊時の船は御船入のある桜尾城址の東側の港に係留されていた。

津和野藩御船屋敷は明治4年(1871)の廃藩置県迄存続した。其の後、大正4年(1915)桜尾城趾西側の船屋敷跡地に佐伯郡立工業徒弟学校が開校された。


廿高前身徒弟学校

木工技術者を養成した徒弟学校はのち

大正11年(1922)41日 広島県佐伯工業学校と改称。
翌年には県立移管により広島県立廿日市工業学校と改称。
さらに昭和13年(1938) 現在地の桜尾三丁目に移転。

昭和23年(1948) 県立廿日市高等学校と改称。

昭和37年(1962)9月31日 工業科は新設宮島工業高等学校に統合、募集停止。

昭和39年(1964331日 全日制工業科廃止。

昭和43年(1968)101日 広島県立廿日市高等学校と改称。

平成25年(2013)現在、男女共学、学年制全日制課程と定時制課程となる。
徒弟学校から起算すると、2年後の平成27年(2015)には創立100年を迎える。 
 

徒弟学校


昭和39(1964)当時の学校風景
 



 


 

 



歴史
2013/09/18
「芸州廿日市の七尾城とは」

文政2年(1819)「国郡志御用二付郡辻書出帳」によれば

「佐伯郡七ッ尾  佐方村岩戸尾(いわとお)、同村篠尾(ささお)、廿日市桜尾(さくらお)、下平良 宮内村藤掛尾(ふじかけお)、同村越峠尾(こいとお)、上平良 宮内村谷宗尾(たにむねお)、同村宗高尾(むねたかお) (以上古来ゟ当郡七ッ尾ト申伝へ)」とある。

また、
「古城跡 佐方村嶽尾 城主 遠藤美作守、廿日市桜尾 同 厳島神主後二桂元澄、下平良 宮内村藤掛尾 同 小方加賀守、上平良 宮内村谷宗尾 同 小幡上総介、同村宗高尾 同 糸賀平左衛門、是ヨリ以下城主相知不申分下平良 宮内村越峠尾」 とある。 
(「廿日市町史 資料編」 昭和50) 6ヶ所記載あり。

文政8年(1825)「藝藩通志」によれば

「桜尾 廿日市にあり、谷宗尾、宗高尾、藤掛尾、越峠尾 並びに宮内、平良二村の界にあり、岩戸尾、篠尾 並びに佐方村にあり、上の桜尾より、此の篠尾までの七所を七尾城と称す。

 

文政8年には記載のない、政嶽尾城(たけおじょう)は、佐方村にあり、毛利の麾下(きか)、遠藤美作所居(しょきょ)。

詳細は「廿日市市郷土文化研究会ホームページ」内、 

Google Maps API V3を利用した地図の表示
-
中世山城の遺跡七尾城-(サイドバー付
http://kyobunken.onushi.com/newpage29.html

 をご覧ください。




歴史
2013/09/18
「正覚院の時太鼓」

正覚院は、真言宗 篠尾山(ささおやま)と号し、天平(てんぴょう)九年(737)行基菩薩開基と伝えられる。

廿日市市重要文化財で旅の守り神とされる十王像があり、廿日市宿に入った旅人はまず十王十王に今回の旅の安全を祈願し、再び西へ東へと次の宿へ急ぐのであった。

天文二十四年(1555)厳島の合戦より三十年経った天正(てんしょう)十三年(1585)当時の厳島神社神主家の居城であった桜尾城主・毛利元清(毛利元就の四男)がオランダ製の時計を正覚院に寄進した。

それは時計が日本に渡来して四十年ほど後のことであった。正覚院の住職は何か利用できないものかと考えついたのが、この時計を頼りに太鼓を打ち、人々に「時」を知らせることであった。四月から九月の間は、朝五時を一番太鼓、七、十、正午、二、四、六、八、十時の九回。十月から翌三月の間は、朝六時、八、十、正午、二、四、六、八、十時と同じく九回太鼓を打ち鳴らした。

その音は、宮島の長浜、杉の浦、さらに遠く能美辺りまで届き、当時時計を持たない人々から大変便利がられたという。明治十七年(1884)四月二十六日、正覚院は火災により炎上、その時この時計は灰となってししまったという。

その後、社会は進歩し、眼下に望む二号線を走る車の騒音などで存在価値が薄れ、昭和三十七年町の補助金も打ち切られた。天正以来、三七七年の長きに渡り、時太鼓は打ち鳴らされ廿日市の人々に「時」を知らせ続けてきた「正覚院の時太鼓」はこうして時代の波に勝てず、終焉を迎えるのであった。

歴史



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