「嚴島合戦後の嚴島キリシタン事情」
ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)1525年(大永5年)頃にポルトガルのアヴィシュに生まれたとされる。イエズス会に入会し、1551年(天文20年)、兄弟らとともにインドのゴアに入り、司祭となる。1554年(天文23年)にはゴアを発ち日本へ向かった。
1556年(弘治2年)、イエズス会インド副管区長ヌーネス・バレトとともに豊後府内(現大分市)に上陸し、日本での布教活動を開始した。1558年(永禄元年)バルタザール・ガーゴ神父に代わり平戸布教を担当し、約1500人に洗礼を授けたが仏教徒と対立し、領主松浦隆信 (道可) により退去を命じられ、一時府内に戻った後、コスメ・デ・トーレスの指示を受け、京での布教を目指した。
翌1559年(永禄2年)、日本人の肥前白石(現在の平戸市)出身で、目が不自由で琵琶法師であったが、フランシスコ・ザビエルに出会って洗礼を受けたロレンソ了斎(ロレンソりょうさい)ら同伴者二人と京都入りを果たす途中、船は嚴島に碇泊(ていはく)した。嚴島合戦の4年後の事であった。
ガスパル・ヴィレラ神父一行は島内で唯一のある信者を知った。フランシスコ・ザビエルから山口で洗礼を受けたフェリペという老人とその妻で、キリシタン弾圧で山口から逃れ来たが十年間というもの神父にも会わず、貧困の中嚴島で過ごしてきたため、一行が自分たちの家に泊まることを非常に喜んだという。フェリペは自分たちがここに来て最初の数年は、地震や火事、夜聞こえる騒動、あの神社も燃え上がり、山も家も崩れるかと思われるほどであり、苦しめられたことを神父に話した。
1574年(天正年)、日本地区布教長フランシスコ・カブラルが京都へ行く途中山口に寄り、嚴島で八十二歳になっていたフェリペを訪問し一泊した。
参考文献 :「芸備キリシタン史料」H・チーリスク編著 吉川弘文館 1968年
参考Web:ウィキペディア 「ガスパル・ヴィレラ」最終更新 2010年12月9日 (木) 09:56、
「ロレンソ了斎」最終更新 2010年10月24日 (日) 04:50
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「屏風の名称 -紙本墨書尊海渡海日記-」
前回の尊海 紙本墨書尊海渡海日記は屏風に裏書されている。
今回は屏風の名称について確認。
横に幾つも連なった屏風(びょうぶ)の面の、一つの面を指して「扇(せん)」と呼ぶ。扇は向かって右側から左に向かって、第一扇、第二扇と数える。折れ曲がった扇の数によって、屏風の形状は「二曲(きょく)」「四曲」「六曲」などと数える。 また左右で二つのものが対になって機能する一組になった屏風は「双(そう)」と数える。対になっていない片割れだけのものは「隻(せき)」と数える。
(左右で対になる一双(いっそう)屏風の例)
一双屏風には、右隻と左隻で違う画面を描きながら、互いに対の関係となっているものがよく見られる。六つの扇(せん)は向かって右側から、右隻第一扇、右隻第二扇、 左隻第一扇、左隻第二扇と呼ぶ。
一双屏風には、右隻と左隻で違う画面を描きながら、互いに対の関係となっているものがよく見られる。六つの扇(せん)は向かって右側から、右隻第一扇、右隻第二扇、 左隻第一扇、左隻第二扇と呼ぶ。
落款は書画を制作した際に制作時や記名を書き込んだもので、一双屏風の場合、落款は原則として右隻のいちばん右端と左隻のいちばん左端に記される。従って落款の位置で、屏風のどちらが右隻でどちらが左隻かが判明する。
前回の紙本墨書尊海渡海日記〈(八曲屏風裏書)/表ニ紙本墨画山水図アリ〉について文化庁のデータベースによると、員数:一隻とある。隻とは、屏風など対(つい)になっているものの片方を数えるのに用いるので、八曲一隻の屏風なのか?。
参考Web:「滋賀県立近代美術館 屏風を鑑賞するための基礎知識(1)」より引用 2011年5月13日 AM7:54 http://d.hatena.ne.jp/shiga-kinbi/20110304/1299196884
「尊海 紙本墨書尊海渡海日記」
尊海(そんかい)は、厳島の真言宗亀居山放光院大願寺(ききょざんほうこういんだいがんじ)の僧である (?~1549)。 建仁年間(1201~1233)僧了海により再興されたとされる大願寺には、戦国時代の天文八年(1539年)九月十日尊海が一切経を求めて朝鮮に渡った時の紀行を裏張りにした「紙本墨書尊海渡海日記」(しほんぼくしょそんかいとかいにっき)(八曲屏風裏書)のレプリカがある。明治43年(1910)4月20日に国の重要文化財の指定を受けた。現在は東京国立博物館に移管されている。
文化庁 国指定文化財等データベース 国宝・重要文化財(美術品)に詳細が記録されている。
名称:紙本墨書尊海渡海日記〈(八曲屏風裏書)/表ニ紙本墨画山水図アリ〉
しほんぼくしょそんかいとかいにっき(はっきょくびょうぶうらがき)
員数:一隻、 種別:古文書、 時代:室町、 重要文化財(美術品)、
重文指定年月日:1968.04.20(昭和43.04.20)、
所在都道府県:広島県、 所有者名:大願寺、と登録
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ただし、1968.04.20(昭和43.04.20)、とあるがこれは誤りで、
1910.04.20(明治43.04.20)が正しい。
2011/5/14現在、文化庁の国指定文化財等データベースは錯誤のまゝの為注意。
※この件、2012/4/24 広島県教育委員会秘書広報室を通じて錯誤を指摘。
2012/5/8 文化庁の国指定文化財等データベースで、1910.04.20(明治43.04.20)
に修正されていることを確認。
文化庁 http://www.bunka.go.jp/
国指定文化財等データベース
文化財分類ごとに見る ― 国宝・重要文化財(美術品)
都道府県ごとに見る ― 広島県 ― 158件中1件から20件のデータです―
3ページ目の41件から60件のデータです の5行目が該当箇所。
【史料1】
※この件、2012/4/24 広島県教育委員会秘書広報室を通じて錯誤を指摘。
2012/5/8 文化庁の国指定文化財等データベースで、1910.04.20(明治43.04.20)
に修正されていることを確認。
文化庁 http://www.bunka.go.jp/
国指定文化財等データベース
文化財分類ごとに見る ― 国宝・重要文化財(美術品)
都道府県ごとに見る ― 広島県 ― 158件中1件から20件のデータです―
3ページ目の41件から60件のデータです の5行目が該当箇所。
【史料1】
【史料1】は「広島県史 古代中世資料編Ⅲ(厳島文書編2)大願寺文書」所収 補遺二 大願寺尊海渡海日記の冒頭部を加工したものである。
そこには、尊海が高麗に赴くことになった経緯が記されている。毛利と陶の嚴島合戦の13年前のことである。
安芸嚴島大願寺の湯殿の行人道本が、当社(嚴島社)に一切経はあるが古くて痛んでいるので、末世の為に手に入れ備える爲、印漢と云う僧を天文六年八月二日(新暦1537年9月16日)防州(周防)に遣わし、御屋形(大内義隆)様の疏(書簡)・勘合に印を頂かせ、高麗国への進物をととのえ、博多に向かわせたのは天文七年五月十二日(新暦1568年6月18日)であった。大願寺の廿日市平良庄生まれの尊海が印漢に相添(あいそう)ことになり、博多で追い着いた。七月一日(新暦8月5日)乗船して、七月八日(新暦8月12日)壱岐嶋着岸、翌九日出港、十日の未明に対馬の府中に着いた。去る事(然る事)があって、船頭決まらず、九月二日対劦の宋孫三郎長幸と防劦渡辺右衛門尉両人の船頭が決まった。すでに天文八年春を迎えた。印漢はある夜夢を見た。府中の八幡の詣で、くじを取ったところ高麗に渡っても一切経は有るべからずと下されたと称し船頭たちともめ、公務を放棄してしまった。
尊海は中絶のままでは、外聞をはばかられるので、責而(せめて)高麗に渡って、一切経の実否(本当かうそか)を確かめるため、上官使となって四月十四日(新暦1539年5月12日)府中を出港して、五月九日(新暦1539年6月5日)高麗于(高麗に使者としておもむく)釜山浦(フサンカイ)着岸。
尊海については、大願寺の僧以前についてはほとんど不詳である。しかしこの日記の中で生国に触れている箇所があり発見である。大願寺之内生国藝州平良之庄之仁
参考文献:「広島県史古代中世資料編Ⅲ(厳島文書編2)補遺二 大願寺尊海渡海日記」
「日朝関係史の研究(上) 中村栄孝」 吉川弘文館 昭和45年 5月1日再販
参考Web:「文化庁 国指定文化財等データベース 国宝・重要文化財(美術品)(2011年5月14日)
http://www.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=201&item_id=9604
「両部鳥居(りょうぶとりい)」
厳島神社は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にあり、1400年の歴史をもつ日本全国に約500社ある厳島神社の総本社である。社殿のある三笠浜(みかさのはま)を囲むように突出した東の宮崎と西の西崎との間に、本社火焼前(ひたさき)より八十八間の沖合に高さ16㍍の朱の大鳥居が建つ。この色は光明丹(こうみょうたん)という顔料の一種の酸化鉛で、鉛ガラスの原料や陶磁器の釉などのほか多く錆止めなどに使われる。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、光明丹で錆(さび)どめを施されたこの両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居(よつあしとりい)、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。
大願寺の記録によれば、西暦1286年11月19日再建、北朝1371年5月再建、1547年大内義隆再建、1562年1月13日毛利元就・隆元再建(大願寺文書121号より永禄4年11月28日と日付類推)、元文四年九月五日落成、享和元年四月二十五日落成、明治八年七月十七日上梁と七回再建されている。巷間、平安末期以来、明治八年の建立で八代と云われている。
昨年9月、廿日市市役所ホールに宮島工業高校製作の大鳥居の模型が展示されていた。脚柱部の地中に数百本の木杭が打ち込まれていると子供時分に聞いた記憶のイメージ通り、その様子が模型で再現されていた。大鳥居は地中に木杭で基礎を固めているが、基礎の上に乗っかっているだけで、笠木の下の島木を箱型にし、中に小石を数トン入れて、鳥居の自重で倒壊しない工夫がされている。