「旧暦5月5日 地御前神社の「馬飛ばし」の様子」
地御前神社の御陵衣祭は旧暦5月5日に行われる。
今年は平成23年6月6日(月)が旧歴5月5日に当たる。昨日、厳島神社外宮地御前神社に於いて、地元で「馬飛ばし」と親しまれている「流鏑馬」を何十年振りで見学した。
午後3時半過ぎになり、小笠原流流鏑馬装束に身を包んだ騎手が褐色の毛で覆われている栗毛の馬上にまたがり、左右のたずなを引かれてゆっくりと歩いてくると、当社の東方のJRの踏切を渡った北側にある大歳神社の前に設けられた三つの的の前でやおら弓を射る。
距離2㍍ほどの的の円には命中しなかった。しかし、祭りに集まった観衆の思いが矢に込められていたかのようで、観衆からは弓を射.った瞬間一瞬の静寂があり、大きなどよめきとともに拍手が起こった。
大歳神社前の釈迦堂では菖蒲と蓬(しょうぶとよもぎ)の束を希望者に配っていた。地御前では自宅の軒先に奉げ、その晩、菖蒲湯に入る習わしがあると聞き、帰宅後実践してみた。
今年は平成23年6月6日(月)が旧歴5月5日に当たる。昨日、厳島神社外宮地御前神社に於いて、地元で「馬飛ばし」と親しまれている「流鏑馬」を何十年振りで見学した。
午後3時半過ぎになり、小笠原流流鏑馬装束に身を包んだ騎手が褐色の毛で覆われている栗毛の馬上にまたがり、左右のたずなを引かれてゆっくりと歩いてくると、当社の東方のJRの踏切を渡った北側にある大歳神社の前に設けられた三つの的の前でやおら弓を射る。
距離2㍍ほどの的の円には命中しなかった。しかし、祭りに集まった観衆の思いが矢に込められていたかのようで、観衆からは弓を射.った瞬間一瞬の静寂があり、大きなどよめきとともに拍手が起こった。
大歳神社前の釈迦堂では菖蒲と蓬(しょうぶとよもぎ)の束を希望者に配っていた。地御前では自宅の軒先に奉げ、その晩、菖蒲湯に入る習わしがあると聞き、帰宅後実践してみた。
その後、馬は東方にゆっくりと歩を進め、地御前市民センターの先にある今市稲荷社まで向かうという。
「2011年5月目次」
1.2011年5月4日 「第二回征長役における宮島での混乱について」
2.2011年5月5日 「佐方 八幡神社(さかた はちまんじんじゃ)」
3.2011年5月5日 「廿日市市の上下水道の歴史」
4.2011年5月6日 「曹洞宗 洞雲寺(とううんじ)」
5.2011年5月6日 「下水道の歴史」
6.2011年5月6日 「マンホールデザインの追憶」
7.2011年5月7日 「厳島合戦勝利後の元就」
8.2011年5月8日 「江戸時代の時」
9.2011年5月11日 「旧暦・新暦変換 / 江戸時代の時刻換算ソフト」
10.2011年5月12日 「経塚」
11.2011年5月13日 「両部鳥居(りょうぶとりい)」
12.2011年5月14日 「尊海 紙本墨書尊海渡海日記」
13.2011年5月15日 「屏風の名称 -紙本墨書尊海渡海日記-」
14.2011年5月16日 「嚴島合戦後の嚴島キリシタン事情」
15.2011年5月17日 「嚴島内侍の名前」
16.2011年5月18日 「内侍方居屋敷」
1.2011年5月4日 「第二回征長役における宮島での混乱について」
2.2011年5月5日 「佐方 八幡神社(さかた はちまんじんじゃ)」
3.2011年5月5日 「廿日市市の上下水道の歴史」
4.2011年5月6日 「曹洞宗 洞雲寺(とううんじ)」
5.2011年5月6日 「下水道の歴史」
6.2011年5月6日 「マンホールデザインの追憶」
7.2011年5月7日 「厳島合戦勝利後の元就」
8.2011年5月8日 「江戸時代の時」
9.2011年5月11日 「旧暦・新暦変換 / 江戸時代の時刻換算ソフト」
10.2011年5月12日 「経塚」
11.2011年5月13日 「両部鳥居(りょうぶとりい)」
12.2011年5月14日 「尊海 紙本墨書尊海渡海日記」
13.2011年5月15日 「屏風の名称 -紙本墨書尊海渡海日記-」
14.2011年5月16日 「嚴島合戦後の嚴島キリシタン事情」
15.2011年5月17日 「嚴島内侍の名前」
16.2011年5月18日 「内侍方居屋敷」
「内侍方居屋敷」
嚴島野坂文書1917号 嚴島社社家内侍祝者屋敷付立(年号不詳)
(内侍方居屋敷) (所在町名)
竹林内侍居屋敷 久保
御子内侍居屋敷 久保
徳寿内侍居屋敷 瀧小路
四老内侍居屋敷 柳小路
五老内侍居屋敷 南小路
六老内侍居屋敷 南小路
七老内侍居屋敷 南小路
八老内侍居屋敷 南小路
わこん内侍居屋敷 南小路
から神内侍居屋敷 中西
せん松内侍 瀧小路
てん内侍居屋敷 南小路二有
みや松内侍居屋敷 大西二有
お宮松内侍居屋敷 瀧小路有
才鶴内侍居屋敷 南
きい内侍居屋敷 大西二有
植木内侍居屋敷 中西有
宮槌内侍居屋敷 南小路有
高井内侍居屋敷 中江有
ねゝい内侍居屋敷 瀧小路有
石田内侍居屋敷 中江
あねい内侍居屋敷
てん内侍居屋敷 南小路有
さい松内侍居屋敷 中西
いゝた内侍居屋敷
かなちよ内侍居屋敷 南小路
河野内侍居屋敷 久保
島内の町の区分
文政八年(1825)成立の「藝藩通志 巻十五」―安藝國嚴島三の
市街公廨(くがい)に島内の町の区分説明あり。
東町(本社より東の総称なり、其内左のごとくわかる、
大町―搭の岡ともいふなり
西町(本社より西の惣稱、且南町もこれに属す、その内左のごとく分る、
南町―奥に紅葉谷あり
瀧町―瀧の下流通ずる所、故に名となす、祠官及び社僧の居多し
中江町―陰徳太平記に、柳小路とあり
久保町―瀧町に属す
中西町―御子内侍小路、五間屋町、みな此町の内なり
大西町―大元に通ふ山路あり
戸口
家 千二十八戸
人 三千七百三十四口
西町 二百三十八戸、 千三百十人、 社人二百一人、僧五十人、
参考文献:「厳島神社門前町 廿日市市厳島伝統的建造物群保存対策調査報告書」
廿日市市教育委員会 平成19年
廿日市市教育委員会 平成19年
「嚴島内侍の名前」
嚴島野坂文書121号 天文十年七月五日(新暦1541年8月6日)
手流内侍
嚴島野坂文書1893号 慶長十三年正月(新暦1608年2月)
﨟(ろう)とは年功による序列のこと。
手長内侍(てながないし)
諸所内侍
(註)原則厳島野坂文書のママ記載(例:宮熊内侍と宮能内侍)
参考文献: 「広島県史 古代中世資料編Ⅱ(厳島文書編1) 厳島野坂文書]
安芸国厳島神社の内侍は巫女で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の
旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った。
平安末期、治承元年(1177)十月十一日(新暦1177年11月10日)平相国清盛が平家一門と厳島に参詣し、社頭において習礼・臨時祭・万燈会・千僧供養・一切経会・引声等の諸行事の模様を詳細に書き留めた「伊都岐嶋千僧供養日記」に12人の妓女が名を連ねている。
・黒内侍
・普賢内侍 ・文珠内侍 ・弥陀内侍 ・万寿内侍 ・多門内侍 ・釈迦内侍 ・千歳内侍 ・乙内侍 ・地蔵内侍 ・弥陀内侍 ・薬王内侍 |
嚴島野坂文書121号 天文十年七月五日(新暦1541年8月6日)
本内侍
三老(御子内侍)
四老 五老 六老 七老 八老 九老 十老 韓神内侍(からかみ) |
手流内侍
田内蔵助娘
田将監女房 飯田孫九郎女房
熊野刑部丞女房
河田内蔵助女房 難波左馬允女房
亀
南内侍 福松 植木内侍 紀伊 |
嚴島野坂文書1893号 慶長十三年正月(新暦1608年2月)
たかはやし
とくしゅ みこ 四りやう(老)
五りやう
六りやう 七りやう 八りやう
わごん
からかみ 田 いゝた
せん松
みやま おみや さいつる
きい
うへき みやつち たかい
ねゝい
いしだ あねい さいまつ
かなちよ
かわの |
嚴島野坂文書1894号 慶長十五年三月三日(新暦1610年4月26日)
たかはやし
四老内侍 五老内侍 六老内侍
七老内侍
八老内侍 田内侍 飯田内侍
和琴内侍(わごん)
から神内侍 高井内侍 みそへ(溝部)内侍
植木内侍
千松内侍 河野内侍(かわの) おミや内侍 きい内侍 さい鶴内侍 あねい内侍 宮槌内侍
御子内侍
かなちよ内侍 宮熊内侍 せん内侍 とく寿内侍 石田内侍 ねゝい内侍(寝々) |
江戸中期1697年成立「厳島道芝記」の「社家供僧内侍并諸役人神人之名の内侍」
の条に「八乙女」亦「本内侍」と称したことがみえる。
の条に「八乙女」亦「本内侍」と称したことがみえる。
一﨟内侍 号竹林
二﨟内侍 号徳寿 三﨟内侍 号御子
四﨟内侍 号田
五﨟内侍 六﨟内侍
七﨟内侍
八﨟内侍 |
手長内侍(てながないし)
和琴内侍
韓神内侍 高井内侍 石田内侍 飯田内侍 植木内侍 河野内侍 御添内侍 金千代内侍 才鶴内侍 千 内侍 千松内侍 才松内侍 宮松内侍 宮鶴内侍 宮 内侍 宮能内侍 宮槌内侍 河田内侍 姫 内侍 望月内侍 紀伊内侍 春 内侍 寝々内侍 梅 内侍 姉 内侍 地 内侍 |
諸所内侍
藤壷内侍
梅壷内侍 次郎御前内侍 霧内侍 妹内侍 |
(註)原則厳島野坂文書のママ記載(例:宮熊内侍と宮能内侍)
参考文献: 「広島県史 古代中世資料編Ⅱ(厳島文書編1) 厳島野坂文書]