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2024/03/28
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2011/05/07
「厳島合戦勝利後の元就」

  天文(てんぶん)十四年(一五四五)毛利元就夫人妙玖みょうきゅうは四十七歳で没しました。夫人の死は大きな衝撃であったようで、元就は翌天文十五年(一五四六)六月前後に隆元に家督を譲り隠居します。

佐東郡の内二千貫余を隠居領として支配していました。九年後、弘治元年(一五五五)十月朔(さくじつ)日の厳島合戦の折は、嫡男の隆元が毛利家総領の立場でした。

厳島合戦の半年後には、元就は、厳島合戦勝利の上陸地である包之浦に鎮座する包浦御社に神田を寄進することを大願寺に約束しています。(「包浦御社江神田可致寄進候、貢數在所等而可申付候、此旨可有御祈念候、恐々謹言 弘治二年三月二日元就(花押)」毛利元就寄進状 大願寺文書95)。

毛利氏により新しい要素を取り込み、往古の神事・祭礼が復興されることになります。また毛利氏のための臨時の神事・祭礼・戦勝祈願も行われるようになります。

22291f84.jpeg島巡り神事は、養父崎(やぶさき)神社で行わ行われる「御鳥喰式(おとぐいしき)」を重要な儀式として、厳島神社の姫神(ひめがみ)が鎮座場所を探し、神鴉(おがらす)を先導役に浦々を巡ったことに因(ちな)む行事です。元就は元亀(げんき)二年(1571年)六月十四日、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に於いて死去。享年75。死因は老衰とも食道癌とも言われる。(厳島神社本社入口脇の石灯籠の笠に神鴉(おがらす)は鎮座)



 

二〇一 毛利元就供米返事 (厳島野坂文書)
包浦御祭礼被相調御久米送給候、尤目出候、殊御祭日十月一日ニ被相定之由、是又肝要候、弥(いよいよ)御祈念存候、猶重□可申述候、恐々謹言、
(弘治三年カ)
十月四日              元就(花押)
棚守左近衛将監殿
(圓海)
大願寺 御返報
 
包之御祭(つつみのおんまつり)は、弘治二年三月二日、厳島合戦で勝利した元就が自らの隠居領である佐東五ヶ村の内から祭田を寄進して始めた祭りで、合戦と同じ十月一日に定められ、祭田を預けられた大願寺の僧尊海(そんかい)が包之浦御社の造営にあたり、厳島合戦の勝利を祝い、祭りを調(ととん)えたのです。
毛利元就供米(くまい)返事は、包之御祭が無事に房顕・尊海によって調えられ、久米を送られたことへの礼状です。厳島社では、神様にお供えされた御供米(ごくまい・厳島神社では現在これを「御久米・くめ」と云うようです)をお祀(まつ)りの終わったあと檀那衆に配るということをしていたようです。厳島大明神の信奉者にとっては、御久米(くめ)をいただけるということは、大変嬉しく、光栄なことなのです。
(弘治三年カ)十月四日とありますが、厳島社では財政厳しき折、入目(いりめ・神事・祭礼の費用) が入った後の永禄三年(一五六〇)十月一日に執り行われたと考えられます。

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「包ケ浦神社」 (御祭神  「塩土老翁」 しおつちのおじ)

 





 


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