「御子姫君(みこのひめぎみ) 」
「嚴島道芝記全」巻(まきの)五・・名所旧跡の「竹林内侍屋舗(たかはやしないしやしき)」(153頁)には、
「久保町の隅(すみ)にあり。いにしへは宮武(みやたけ)内侍(ないし)といへり。 此家(このいえ)の内侍平相国(たいらのしょうこく)の愛女(あいじょ)となりて息女(そくじょ)をもうけ、内侍腹(ないしばら)の娘といへり。高倉(たかくらの)帝(みかど)御幸(ごこう)の時、此所(ここ)皇居(こうきょ)となると伝(つた)ふ。・・・・」。
「嚴島道芝記」巻1 57頁 内侍の項には、
内侍は40人位おり、役割ごとに神に侍(はべ)って奉仕する巫女(みこ)が、遠路、参拝に来た身分の高い人々を接待する役目もあった。
宮武(みやたけ)内侍(ないし)の娘は、清盛の七女、御子(みこの)姫(ひめ)君(ぎみ)である。
『玉葉(ぎょくよう)』によれば、
御子(みこの)姫(ひめ)君(ぎみ)(長寛2年(1164)~治承5年(1181)?)は、治承5年(1181)正月、高倉上皇が危篤に陥ると、崩御したのちは中宮平徳子を後白河法皇の後宮(こうきゅう)に入れるよう進言した者がおり、清盛・時子夫妻も承諾したが、徳子はこれを強く拒絶し、髪を切って出家しようとしたため、代わりに18歳の御子姫君が選ばれた。美貌であったが、法皇は御子姫君に心を寄せることなく、御子姫君は入侍後間もなく没したという。
「嚴島道芝記全」巻(まきの)五・・名所旧跡の「竹林内侍屋舗(たかはやしないしやしき)」(153頁)には、
「久保町の隅(すみ)にあり。いにしへは宮武(みやたけ)内侍(ないし)といへり。 此家(このいえ)の内侍平相国(たいらのしょうこく)の愛女(あいじょ)となりて息女(そくじょ)をもうけ、内侍腹(ないしばら)の娘といへり。高倉(たかくらの)帝(みかど)御幸(ごこう)の時、此所(ここ)皇居(こうきょ)となると伝(つた)ふ。・・・・」。
「嚴島道芝記」巻1 57頁 内侍の項には、
内侍は40人位おり、役割ごとに神に侍(はべ)って奉仕する巫女(みこ)が、遠路、参拝に来た身分の高い人々を接待する役目もあった。
宮武(みやたけ)内侍(ないし)の娘は、清盛の七女、御子(みこの)姫(ひめ)君(ぎみ)である。
『玉葉(ぎょくよう)』によれば、
御子(みこの)姫(ひめ)君(ぎみ)(長寛2年(1164)~治承5年(1181)?)は、治承5年(1181)正月、高倉上皇が危篤に陥ると、崩御したのちは中宮平徳子を後白河法皇の後宮(こうきゅう)に入れるよう進言した者がおり、清盛・時子夫妻も承諾したが、徳子はこれを強く拒絶し、髪を切って出家しようとしたため、代わりに18歳の御子姫君が選ばれた。美貌であったが、法皇は御子姫君に心を寄せることなく、御子姫君は入侍後間もなく没したという。
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「平清盛は「瀬戸内海」と呼んでいなかった?」
平安時代には、現在のように瀬戸内海全域を一体のものとして捉えることはなく、播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているに過ぎませんでした。
「瀬戸内海」というおおまかな概念が誕生したのは、江戸時代後期といわれ、明治後期には、明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域を指す「瀬戸内海」の概念はもっとのちになるようです。
平安時代には、現在のように瀬戸内海全域を一体のものとして捉えることはなく、播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているに過ぎませんでした。
「瀬戸内海」というおおまかな概念が誕生したのは、江戸時代後期といわれ、明治後期には、明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域を指す「瀬戸内海」の概念はもっとのちになるようです。
「平清盛は「宮島」と呼んでいた?」
永暦元年(1160)八月一日、 清盛43 歳の時、武士として初めて正三位(しょうさんみ)の公卿に列せられると、 厳島神社への参詣という「宿願」を、およそ十五年も経ってから初めて果たします。その後は、広島県史では、二十年間に十回の参詣をするほど熱烈な信仰でした。
「厳島道芝記」(1697年成立)によれば、宮島は古くは「恩賀島(たぐいなきしま)」とか「伊都岐島」と言われます。 また此神の宮地(みやところ)の島なる故に称せる名とされる「宮島」はいつ頃から呼ばれるようになったのかは定かではありませんが、平安後期にあたる治承四年(1180)の「高倉院厳島御幸記」には、すでに「午(うま)の時に宮島に着かせ給(たまう)」と記されており、清盛も「宮島」と呼んでいたと考えられます。
永暦元年(1160)八月一日、 清盛43 歳の時、武士として初めて正三位(しょうさんみ)の公卿に列せられると、 厳島神社への参詣という「宿願」を、およそ十五年も経ってから初めて果たします。その後は、広島県史では、二十年間に十回の参詣をするほど熱烈な信仰でした。
「厳島道芝記」(1697年成立)によれば、宮島は古くは「恩賀島(たぐいなきしま)」とか「伊都岐島」と言われます。 また此神の宮地(みやところ)の島なる故に称せる名とされる「宮島」はいつ頃から呼ばれるようになったのかは定かではありませんが、平安後期にあたる治承四年(1180)の「高倉院厳島御幸記」には、すでに「午(うま)の時に宮島に着かせ給(たまう)」と記されており、清盛も「宮島」と呼んでいたと考えられます。
「・・・平清盛の少年時代」
平家物語 第2巻 3 西光被斬 (さいくわうがきられ)
そもそも御辺(ごへん)は、故刑部卿忠盛の嫡子(ちやくし)にておはせしが、十四五(じふしご)までは出仕(しゆつし)もし給(たま)はず。故中御門(こなかのみかど)の籐中納言家成卿(とうぢうなごんかせいのきやう)の辺(へん)に立ち入り給(たま)ひしをば、京童部(きやうわらんべ)は例の高平駄(たかへいだ)とこそ言ひしか。
『そもそも貴殿は故刑部卿忠盛の嫡子ではあるが、十四、五歳までは朝廷に出仕されることもなく、故中御門藤中納言家成卿のそばに出入りされておったのを、京童は例の『高平太』と、噂をしていたではないか。』
いつも高足駄の姿で播磨守家成の邸宅に出入りしていた平氏の太郎こと清盛は、「六波羅のふかすみ(墨黒の馬)の高平太の通るは」と京童に噂されていた。
西光(さいこう)
藤原師光(ふじわらのもろみつ)。信西(しんぜい)に仕え、その没後出家西光と名乗る。御白河法皇の近臣として活躍。鹿ヶ谷(ししがたに)で平氏討伐を謀(はか)ったが、発覚して刑死。
平家物語 第2巻 3 西光被斬 (さいくわうがきられ)
そもそも御辺(ごへん)は、故刑部卿忠盛の嫡子(ちやくし)にておはせしが、十四五(じふしご)までは出仕(しゆつし)もし給(たま)はず。故中御門(こなかのみかど)の籐中納言家成卿(とうぢうなごんかせいのきやう)の辺(へん)に立ち入り給(たま)ひしをば、京童部(きやうわらんべ)は例の高平駄(たかへいだ)とこそ言ひしか。
『そもそも貴殿は故刑部卿忠盛の嫡子ではあるが、十四、五歳までは朝廷に出仕されることもなく、故中御門藤中納言家成卿のそばに出入りされておったのを、京童は例の『高平太』と、噂をしていたではないか。』
いつも高足駄の姿で播磨守家成の邸宅に出入りしていた平氏の太郎こと清盛は、「六波羅のふかすみ(墨黒の馬)の高平太の通るは」と京童に噂されていた。
西光(さいこう)
藤原師光(ふじわらのもろみつ)。信西(しんぜい)に仕え、その没後出家西光と名乗る。御白河法皇の近臣として活躍。鹿ヶ谷(ししがたに)で平氏討伐を謀(はか)ったが、発覚して刑死。