「旧暦・新暦変換 / 江戸時代の時刻換算ソフト」
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【註】西暦は、1582年10月4日まではユリウス暦、次の日からはグレゴリオ暦を採用してます。
(ユリウス暦の1582年10月5日はグレゴリオ暦では1582年10月15日)
●ユリウス暦(れき)は地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦で、太陽暦の一種である。
ユリウス・カエサルによって制定され、紀元前45年1月1日から実施された。
●グレゴリオ暦(れき) は1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦
である。
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2. 旧暦(和暦)から西暦に変換
(旧暦の”年月日”を西暦に変換するすぐれもの)
http://www.can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html
【 註】 このスクリプトでは、グレゴリオ暦が作られる以前のユリウス暦の時代をも、現行の太陽暦として
世界各国で使用されているグレゴリオ暦に基づいて表示するものです
【 註】 このスクリプトでは、グレゴリオ暦が作られる以前のユリウス暦の時代をも、現行の太陽暦として
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(ユリウス暦の1582年10月5日はグレゴリオ暦では1582年10月15日)
●ユリウス暦(れき)は地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦で、太陽暦の一種である。
ユリウス・カエサルによって制定され、紀元前45年1月1日から実施された。
●グレゴリオ暦(れき) は1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦
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「江戸時代の時」
午前
0時-夜九ツ(子ノ刻)
1時-九ツ半
2時-夜八ツ(丑ノ刻)
3時-八ツ半
4時-暁七ツ(寅ノ刻)
5時-七ツ半
6時-明け六ツ(卯ノ刻)*夜が明ける
2時-夜八ツ(丑ノ刻)
3時-八ツ半
4時-暁七ツ(寅ノ刻)
5時-七ツ半
6時-明け六ツ(卯ノ刻)*夜が明ける
7時-六ツ半
8時-朝五ツ(辰ノ刻)
9時-五ツ半
10時-昼四ツ(巳ノ刻)
11時-四ツ半
8時-朝五ツ(辰ノ刻)
9時-五ツ半
10時-昼四ツ(巳ノ刻)
11時-四ツ半
午后
12時-昼九ツ(午ノ刻)
13時-九ツ半
14時-昼八ツ(未ノ刻)
15時-八ツ半
16時-夕七ツ(申ノ刻)
17時-七ツ半
18時-暮れ六ツ(酉ノ刻)*日が暮れる
13時-九ツ半
14時-昼八ツ(未ノ刻)
15時-八ツ半
16時-夕七ツ(申ノ刻)
17時-七ツ半
18時-暮れ六ツ(酉ノ刻)*日が暮れる
「厳島合戦勝利後の元就」
天文(てんぶん)十四年(一五四五)毛利元就夫人妙玖みょうきゅうは四十七歳で没しました。夫人の死は大きな衝撃であったようで、元就は翌天文十五年(一五四六)六月前後に隆元に家督を譲り隠居します。
天文(てんぶん)十四年(一五四五)毛利元就夫人妙玖みょうきゅうは四十七歳で没しました。夫人の死は大きな衝撃であったようで、元就は翌天文十五年(一五四六)六月前後に隆元に家督を譲り隠居します。
佐東郡の内二千貫余を隠居領として支配していました。九年後、弘治元年(一五五五)十月朔(さくじつ)日の厳島合戦の折は、嫡男の隆元が毛利家総領の立場でした。
厳島合戦の半年後には、元就は、厳島合戦勝利の上陸地である包之浦に鎮座する包浦御社に神田を寄進することを大願寺に約束しています。(「包浦御社江神田可致寄進候、貢數在所等而可申付候、此旨可有御祈念候、恐々謹言 弘治二年三月二日元就(花押)」毛利元就寄進状 大願寺文書95)。
島巡り神事は、養父崎(やぶさき)神社で行わ行われる「御鳥喰式(おとぐいしき)」を重要な儀式として、厳島神社の姫神(ひめがみ)が鎮座場所を探し、神鴉(おがらす)を先導役に浦々を巡ったことに因(ちな)む行事です。元就は元亀(げんき)二年(1571年)六月十四日、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に於いて死去。享年75。死因は老衰とも食道癌とも言われる。(厳島神社本社入口脇の石灯籠の笠に神鴉(おがらす)は鎮座)
二〇一 毛利元就供米返事 (厳島野坂文書)
包浦御祭礼被相調御久米送給候、尤目出候、殊御祭日十月一日ニ被相定之由、是又肝要候、弥(いよいよ)御祈念存候、猶重□可申述候、恐々謹言、
(弘治三年カ)
十月四日 元就(花押)
棚守左近衛将監殿
(圓海)
大願寺 御返報
包之御祭(つつみのおんまつり)は、弘治二年三月二日、厳島合戦で勝利した元就が自らの隠居領である佐東五ヶ村の内から祭田を寄進して始めた祭りで、合戦と同じ十月一日に定められ、祭田を預けられた大願寺の僧尊海(そんかい)が包之浦御社の造営にあたり、厳島合戦の勝利を祝い、祭りを調(ととん)えたのです。
毛利元就供米(くまい)返事は、包之御祭が無事に房顕・尊海によって調えられ、久米を送られたことへの礼状です。厳島社では、神様にお供えされた御供米(ごくまい・厳島神社では現在これを「御久米・くめ」と云うようです)をお祀(まつ)りの終わったあと檀那衆に配るということをしていたようです。厳島大明神の信奉者にとっては、御久米(くめ)をいただけるということは、大変嬉しく、光栄なことなのです。
(弘治三年カ)十月四日とありますが、厳島社では財政厳しき折、入目(いりめ・神事・祭礼の費用) が入った後の永禄三年(一五六〇)十月一日に執り行われたと考えられます。
「下水道の歴史」
下水道の起源は、インダス文明の栄えた都市に遡るとされている。
●モヘンジョ・ダロの遺跡はB.C.3300~2700年のものと推定され、どの家の浴場も便所も陶製またはレンガ作りの「下水だめ」を通じ街路にある下水渠に連結されていた。
●メソポタミヤ文明の地バビロンではB.C.2200年頃、アッカド王朝の宮殿で下水溝が作られており、腰掛け式の水洗便所が発見されている。
●クレタ文明のクノッソスの王宮では、B.C.1700年頃のものと見られる腰掛け式の水洗便所が発見されている。
●古代ローマにはB.C.615年に築造されたローマ最古の下水道遺跡がある。この最古の下水渠はCloaca maximaと呼ばれ、ローマの7つの丘に囲まれたフォーラム谷の排水のためのものであった。ローマの水道橋も有名であるが、これより更に400年以上も古いものである。
●中世時代の下水道は、雨水は地下に浸透または蒸発あるいは自然の流れに任せていた。下水は道路上や溝に流していたため、病原菌の温床となりコレラ、ペストなどの伝染病が大流行したこともあった。
●フランスのパリでは1370年から下水道が敷設された。
●ロンドンでは16世紀から下水道の改良が始まり、雨水や汚水は管渠を通じて河川に放流されていた。
江戸時代以前の下水道
●弥生時代には、稲作技術の渡来などの理由により大きな集落が形成され、防御、用水、排水等を兼ねた水路が造られるようになった。
●古墳時代には、掘立柱形式の建物の屋根から落ちる水を受ける雨落溝が存在した。
●藤原京の時代には、かなり大規模な排水施設が存在した。藤原京は道路側溝が発達しており、その総延長は約200kmにも及ぶものであった。
●平城京においては、藤原京以上に大規模な都市となり、きちんと計画された道路側溝網が存在していた。
●平安時代には、高野山に水洗便所が存在した。これは、井戸水や沢水を用いた水洗便所で、排出されるし尿は有田川に放流されていた。
●安土桃山時代には、「太閤下水」と呼ばれる背割下水が存在した。これは、大阪城築城に伴う町づくりのひとつとして行われた事業であった。この一部は現在でも使用されている。
●主として雨水の排除を目的とした下水道整備は全国各地で行われていたが、やはり近代的下水道の登場は明治時代に入ってからのことであった。
参考Web:「国土交通省 下水道」http://www.mlit.go.jp/crd/sewerage/rekishi/index.html
(2011年5月4日(木)11:02)