「佐方 八幡神社(さかた はちまんじんじゃ)」
元和(げんな)五年(1619)のころのこの地は、坂田村といい、その後佐方村となり、明治二十二年(1889)に合併して観音村となり、昭和三十一年に五日市町に合併。さらに昭和三十二年に廿日市町に合併と佐方は廿日市と密接な関係がある。今から180年前文政八年(一八二五)に完成の廣島藩領内の地理や歴史を記した「芸藩通志」によれば、佐方は昔は坂田と呼ばれ、そのもとは尺田か狭潟であったろうと記されている。
その昔(中世以前)は、洞雲寺の前あたりまで海が入り込み、佐方八幡宮の前あたりが海辺で狭潟(遠浅の海の地形)となっていた。江戸時代の初めに海岸線沿いの西国街道が整備され、その道路敷きが堤防の役割を果たして、広い干拓地が形成された。
『芸藩通志』によれば、佐方 八幡宮は今から400年前に、毛利家より神田の寄進があったらしいこと。また700年前からこの地方佐伯郡一円の領主であった桜尾城主、厳島神社の神主家であった藤原氏が崇拝していた社で、この神社の祭主だったことが記されています。耕の神で佐方の氏神(古代の氏族が共同でまつった祖先神)である木造神像、薬師如来坐像が祀られています。
拝殿には三十六歌仙額が、また天文生で、伊能忠敬より先立ち、初の江戸から東蝦夷地航路を開拓し、船から測量をした廿日市津和野藩御船屋敷出身堀田仁助が寄進した石燈籠一対が奉納されています。
拝殿には三十六歌仙額が、また天文生で、伊能忠敬より先立ち、初の江戸から東蝦夷地航路を開拓し、船から測量をした廿日市津和野藩御船屋敷出身堀田仁助が寄進した石燈籠一対が奉納されています。
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