厳島神社は、平清盛をはじめとする平家一門や足利尊氏、豊臣秀吉、長州の毛利氏ら、時の権力者の崇敬を集めて栄えた。その社殿の内6棟が国宝、14棟が重文。 また国宝平家納経を始めとして多くの文化財を所蔵。鳥居も重文。
多宝塔(重要文化財)
大永3年(1523年)僧周歓(しゅうかん)によって建立。通称二重搭とも呼ばれる。かってこのそばに多宝院という寺があったと記録にある。天文24年(1555)9月、厳島合戦の折、陶晴賢は二万有余の大軍を率いて厳島に渡り、この丘に陣を張った。
五重塔と千畳閣(せんじょうかく)。
千畳閣は豊国神社の本殿で豊臣秀吉が建立。
しかし秀吉の死去で未完成のまま現在に至っています。
五重塔は応永14年(1407年)の建立で重要文化財。千畳閣も重文指定。
五重塔(ごじゅうのとう)《重要文化財》
千畳閣の隣に建つ五重塔は、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根と朱塗りの柱や垂木(たるき)のコントラストが美しい塔です。高さは27.6m。応永14年(1407年)に建立されたものと伝えられています。
内部は完全な唐様で、一般の見学はできませんが、内陣天井に龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、裏には白衣観音像などが極彩色で描かれています。塔内にあった仏像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されました。またこの五重塔が建つ塔の岡は、厳島合戦で陶軍が陣を構えたと伝えられています。
大願寺(だいがんじ)
正式な呼び名は、亀居山方光院大願寺。開基は不明ですが、建仁年間(1201年~1203年)
の僧了海が再興したと伝えられる真言宗の古刹です。明治の神仏分離令までは嚴島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担い、千畳閣、五重塔、多宝塔などから形成される厳島伽藍の中心をなしていました。
この寺の秘仏厳島弁財天は弘法大師空海の作と伝えられ、日本三弁財天の一つ。弁財天は現世利益の女神様で、神仏習合の時代は嚴島神社の主神・市杵島姫令が理財の女神として崇められるようになり、仏教の弁財天と同一視されていました。
神仏分離令によって嚴島神社から遷されたこの厳島弁財天をはじめ、宮島に現存する仏像の中で最も古いとされる木造薬師如来像(重要文化財)、千畳閣の本尊だった木造釈迦如来坐像(重要文化財)、その両脇を守っていた阿難尊者像と迦葉尊者像(ともに重要文化財)、五重塔の本尊だった三尊像、多宝塔の本尊だった薬師如来像、護摩堂の本尊だった如意輪観世音菩薩などを収蔵しています。
また、本堂奥の書院は、第二次長州戦争の際、勝海舟と長州藩を代表する藩士らが講和会議をした場所護摩堂の本尊だった如意輪観世音菩薩などを収蔵しています。また、本堂奥の書院は、第二次長州戦争の際、勝海舟と長州藩を代表する藩士らが講和会議をした場所として知られます。
原爆ド-ム(かつての広島産業奨励館)を設計したチェコの建築家ヤン・レツルが設計し、大正6年(1917)に落成した宮島ホテルは、宮島観光を楽しむ外国人専用のホテルとして利用された。
戦後、昭和20年(1945)以後は連合軍に接収されて保養施設となっていたが、昭和27年(1952)8月27日に焼失した。
その後、海が埋立てられたあと宮島水族館が建てられ、向かいの宮島ホテルの跡地には、現在の国民宿舎「杜の宿(もりのやど)」が建っている。当時この一帯は立ち入り禁止と聞いており、大願寺から西へは寄り付いたことがなく、宮島ホテルが、海のそばに建っていたことをこの写真で初めて知った。
大元神社の手前の海際に建つ宮島ホテル.
(参考web: http://oirushock.exblog.jp/15475373 )
宮島ホテルの秘話
戦時中の昭和18年(1943)極秘任務を帯びたドイツ海軍Uボートの乗組員が来日し、宮島ホテルに宿泊したという。
乗組員はホテルから毎朝、隊列を組んで桟橋まで行進。船で大竹にあった海軍潜水学校などに行き、操縦方法を指導した。
(参考:朝日新聞 朝刊 広島13版 2013/8/18日曜日)
藝州津和野藩船屋敷出身
蝦夷地開国に付船道筋を明、其外向寄々之測天度、於蝦夷地北極出地測量相調可申上」ため蝦夷地御用を命じられた。
(蝦夷地開国につき、船道筋を明らかにし、そのほか、向こうよりよりの天度をはかり、
堀田仁助 蝦夷地開発ルート
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中世山城の遺跡七尾城 |
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